電力館への惜別                                        岡森利幸   2011/12/13

                                                                  R0-2011/12/17

2011年4月、新聞を眺めていた私は、渋谷にあった電力館が閉館するという小さな記事に目を止めた。やはり……という気持ちだった。東京電力がその広告・宣伝だけのために渋谷の駅に近い場所に8階建ての建物を維持運営するのはむずかしい状況にあるのは、うすうす感じていたし、そのころ改良工事が入ったりして半ば休業状態だった。福島第1発電所で大事故を起こした後は、真っ先に切り捨てられる運命にある施設だろうとも私は思っていた。

電力館には、渋谷の町には似合わないような、子供連れの家族や高齢者の入場者が多かったと思う。土日となると、子供向けのイベントが多く開催されていたし、子供が遊べるようなコーナーや電力関係の展示物が数多くあった。中でも圧巻だったのは原子炉の模型だった。縮小サイズながらも、大掛かりな迫力ある代物が展示されていた。電力館は原発のイメージアップの役割を果たしていたのだ。もうその使命は終わったのかもしれない。

高齢者の目当ては、主に最上階のホールで開催された映画や講演会だった。私にとって電力館は、映画が500円の安さで見られる貴重な施設の一つだったから、交通費の方が高くなったにせよ、ときどき見に行った。その観客数は講演会のときよりずっと多かったけれど、いつの間にか映画会は中止となった。電力館が「映画館」になってしまっては具合の悪いことがあったのだろう。私には映画よりもむしろ講演会のために行くことが多かった。「科学ゼミナール」と銘うった講演会は、数十年も前から続いていたという。講演会マニアである私は、10年ほど前からそれを知り、毎月一度、土曜日の午後に開催されていたその講演会目当てに渋谷へ何度も足を運んだ。講演会のなかでも、最新科学を紹介するような講演会には、私は興味をもっていそいそと出かけていくのだ。なお、電力館では、「科学ゼミナール」以外にも、文化的な講演会が不定期に開催されていた。

 

小田急線から下北沢の駅で乗り換え、京王井の頭線の渋谷駅から北へ徒歩10分ほどで電力館に着く。この井の頭線の電車がラッシュ時でもないのに、いつも混んでいて、私は悩ませられたものだ。駅から電力館まで、地図上では700メートルの距離だが、人も多く、信号待ちもあるから、たどり着くまで一苦労する。渋谷駅前の名物・スクランブル交差点を歩くときには、いつも緊張させられた。人にぶつかりそうだったから……。もたもたしていると信号が赤になるから、濁流に飛び込むような覚悟を決めて突っ切っていく。街には派手な若い人や外人も多く歩いているから、自分が周囲と異質な存在であるようにも感じられたものだ。

電力館の建屋を特徴づける最上階のドームの中に(外からよく見える)、客席数50〜80ほどの観客席とステージがあった。比較的小さなホールだったが、音響や表示装置は近代的でしっかりしていた。最上階へは、透明な壁に沿って上がるエレベ―ターで行く。エレベーターに乗りながら外を見ると、渋谷の町の一部が見渡せるのだ。エレベ―ターが上がるにつれ、地上のものが眼下に小さくなる。ビルの陰に隠れていた山手線がよく見えるようになる。外からでも上り下りのエレベーターが見られるようになっていたから、しゃれていた。でも、内部に入ると、1階から最上階へは直接には上がれず、わざと歩かされる階段があったりして高齢者には不便なところがあった。クレームがついても、なかなか直さないところは東電らしい。

ホールの前の受付で500円を払うと、係りの人が資料の紙を渡してくれる。それに講演の概要や内容が書かれている。「科学ゼミナール」の常連の一人となっていた私は、なるべく前のほうに座るようにしていたから、講演者の間近にいた。講演者の近くで話を聞くこともできるのも、小さなホールの利点だろう。最初に、電力館の若い女性の司会者が直立不動で、講演者の経歴や役職を紹介する。それを聞くと、日本の一流の研究者やその道の大家(オオソリティ)が登壇することが分かる。5、60人の「高齢者」や「ひま人」を相手に話すのは、もったいないような高名な人物ばかりなのだ。大家が最新の研究成果をわかりやすく解説してくれるのだから、ありがたいことだった。ほとんどの講演者はスクリーンに映像を映しながら、話を進めていく。演題の分野は理系に関する全般で、多岐に渡り、天文、化学、情報処理、環境、生物、医学、薬学など、毎回異なる内容だった。十年もすれば研究が進むので、同一の先生が再び登壇することもあったようだ。中には、環境問題で人類の行く末を案じ、こみ上げてくるものがあって言葉に詰まり、立ちすくんでいた先生がいたことが印象深い。

この「科学ゼミナール」は、講演が1時間30分とその後の質疑応答時間が30分、計2時間のプログラムになっていた。多くの先生は1時間30分の時間を超過して熱く語っていた。せっかくの「ご高説」を聞き逃してはもったいないのだ。しかし、私は途中、目をつぶって意識を失ってしまうことがまれにはあった。

講演会の席で私は、常に紙にその話の要点をメモする習慣がついている。電力館の椅子には折りたたみの小さなテーブルがついているから、書きやすい。講演会には常にメモ用紙と筆記用具を持っていくし、そこで資料をもらったのなら、その余白や裏に記入する。ただ聞いているだけでは頭に入らないから、書いている。一つの学習法でもあるのだ。ときには、質問したいことを青ペンで書いたりする。

その後の質疑応答時間がなかなかよかった。質問するのは、「限られた常連」の人が多かったのだが、ときには活発に質問やら「意見」が出て、場が盛り上がった。さすが、大家の先生はしろうとの変な質問にもまじめに答えてくれるのだ。私も「限られた常連」の一人だったかもしれない。変な質問をしては恥ずかしいので、少々の疑問は抑えて、会場の人たちにも参考になるような、これはと思う質問をぶつけたものだ。一人一問という制約があったから、よく考えなくてはならない。質問で手を上げると、司会の女性が選んで指す。すると係りの人がマイクを持ってきてくれるが、質問を終えると、すぐにマイクを戻さなくてはならなかった。多くの人が質問できるように、配慮がされていた。私は講演会が終わった後でも、壇上であとかたづけをしている先生を捕まえて質問したこともあったことを思い出す。

私が最後に参加したのは、メモによると、2011年1月22日のことだった。

 

 

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         電車の中で暴言をはく若者