妖説・白村江の戦いと壬申の乱              岡森 利幸  2012/4/6

R1-2012/5/11

古代史に記録された白村江(はくそんこう)の戦い(663年)は、ふしぎな(いくさ)だ。倭国政府は、実質的に倒壊していた百済政権を復活させるために3万人近い兵力を朝鮮半島の西海岸に差し向けたのだ。朝鮮半島にそんな大軍で武力介入する必要が倭国にあったのか、というのが大きななぞだろう。国の存亡がかかる大決戦だったが、結果は惨敗だった。

また、古代における天下分け目の合戦というべき、最大級の内戦・壬申(じんしん)の乱が672年にあった。白村江の戦いから9年後のことだ。天皇を擁した政権側が反乱軍によってひっくり返されているのだから、おおごとだ。壬申の乱は、定説では、天智天皇の崩御に伴い、その皇位継承を巡って、第一皇子の大友皇子と、天皇の弟だった大海人皇子が争った内戦だったとされる。しかし、単に皇位争いだけでは、内乱は起きないだろう。これ単なる内乱ではなく、政府軍と反乱軍の戦いであったわけで、さらに国際情勢、特に朝鮮半島の勢力争いが背景にあったことが一部の研究者のあいだで指摘されていることでもある。この内戦は、国内の百済(ひゃくさい)派と新羅(しんら)派の政権争いという色合いが濃い、と私はみる。

この二つの戦いについて、要点を示しながら、解説していく。

 

1.まえぶれ

古代において、倭国は朝鮮半島の植民地であったことを念頭に置かなければならない。

弥生時代や古墳時代に朝鮮半島から主に対馬海峡を渡って、未開の地、倭国にやってきた人々は多数に上っている。古くから九州に一番近い加耶(加羅)諸国からは人々が小舟でやって来たし、その後に成立した新羅、百済、高句(こうく)()の国々からの人々も列島に続々流入した。人々は集団で生活するから、そんな人々の地域色が各地に表れていたことだろう。朝鮮半島の勢力分布が倭国に色濃く反映していたのだ。

7世紀においても、人々の渡来は続いた。特に百済と新羅の戦いが激烈になってきたとき、百済の臣民が戦火を逃れるように、極東の辺鄙(へんぴ)な倭国にやってきた。

ちなみに、6世紀末の推古紀から実質的に政権を握っていた大臣家・蘇我馬子―蝦夷―入鹿の三代は、祖先が百済出身だったと言われているが、政治的には高句麗派だった、と私はみる。彼らは、高句麗の人・文化・宗教をよく取り入れていたし、蘇我馬子は、高句麗僧の恵便(えべん)に師事していた。623年に馬子は高句麗と手を結んで軍を差し向け、新羅を攻撃したという記録もある。の墓とされる石舞台古墳の造成は高句麗形式のものだ。当時、彼らは天皇家をしのぐ権勢をふるい、主導的な立場にいて、政治的な仕組みも大陸から積極的に取り入れ、倭国の政治体制の基礎を固めた。

しかし、大化の改新でのクーデター(乙巳(いっし)の変、645年)で、首謀者とされる中大兄皇子(なかのおおえのおうじ)中臣(なかとみの)鎌子(かまこ)(後の藤原鎌足(かまたり))らの百済派が、だまし討ちのようなやり方で、入鹿をはじめとする蘇我宗家を倒し、政権を奪還した。蘇我家は天皇家をさしおいて権力を握っていたから、中大兄皇子らは策略で蘇我氏を暗殺するしかなかったのだ。(天皇が実力者の大臣・蘇我氏を更迭することなど、とてもできそうもなかった) これで、百済派が連立政権的な倭国政府を支える大きな「柱」になった。倭国政府は半島から来た百済の臣民を政府の官人に多く採用したりして、百済との関係を深めた。彼らは識字率が高かったのだから、役人に向いていた。なお、この時代の役人は支配階層だったことに注意を要す。彼らにかかっては、蘇我氏が、それまでに倭国でどんなに政治的影響力を及ぼし、大きな事跡を残そうとも、逆賊扱いで歴史書に描かれる。特に馬子については、彼の多大な業績や足跡を歴史上から消し去るわけにも行かず、「聖徳太子」と呼ばれた別の人物に置き換えられてしまう……。

 

2.白村江(はくそんこう)の戦い

7世紀後半になると、朝鮮半島では、新羅、百済、高句麗の()()(どもえ)の覇権争いが激化していた。倭国政府は、百済よりに立ち、百済を支援していたのだが、唐軍と連合した新羅軍が優勢になっていた。唐は、従おうとしない高句麗に手を焼いていたので、一時的に新羅と連合していたのだ。

倭国が、その重い腰を上げ、大軍を送り込もうとしたときには、百済の王権はすでに660年に滅亡していた。けれど、まだ百済の一部の勢力が残っていて新羅軍に抵抗していたので、倭国軍はそれに合流する形で朝鮮半島を目指した。それまで倭国に百済王子の豊璋(ほうしょう)がいたこともあって、彼を百済側の司令官として前面に押し出すことで、百済・倭国の連合軍として、新羅・唐の連合軍に挑んだのだ。戦いに勝てば、百済再興が実現したかもしれなかった。

661年1月、百済救援の最後の望みをつないで、女帝・斉明(さいめい)天皇がみずから倭国側の陣頭指揮を執る形で、大軍を引き連れて難波を出発した。しかし、その行く手には暗雲がたれこめていたのだ。その途中、女帝の気持ちを汲んだかのように、万葉の女性歌人・額田王(ぬかたのおおきみ)が勇ましい歌を詠んで、どうも士気の上がらない兵士たちにハッパをかけている。

熟田津(にきたつ)に 船乗(ふなの)せむと 月待てば

潮もかなひぬ 今は()ぎ出でな

中大兄皇子(のちの天智(てんじ)天皇)もそれに付き従った。九州・筑紫まで行き、しばらく機を見るかのごとく、あるいは躊躇(ちゅうちょ)するかのごとく、しばらく九州に留まっていた。斉明天皇は高齢だったこともあり、病気のため、7月にその地、筑紫の朝倉宮で崩じた。しかし、称制した中大兄皇子が翌年、その母の遺志を継いで軍を動かしたとされる。みずからは倭国にとどまり、朝鮮半島へ行かなかったけれど……。

663年8月、海を渡った倭国の主力部隊2万7000は、朝鮮半島の朝鮮南西部の錦江河口(群山付近)で、新羅・唐連合軍と激突した。白村江の戦いだ。この海戦で、倭国軍は、小型船団で、その数では(まさ)りながら、ちぐはぐな攻撃を繰り返したため、それを迎え撃つ唐・水軍の大型船による統制の取れた戦法の前に、いたずらに兵力を損耗した。河口の水面が倭国の兵士の血で真っ赤に染まったとされる。当時として最新の兵器や装備で固めた新羅・唐連合軍の戦力がはるかに勝っていたのだろう。結果的に惨敗だった。倭国軍はいっきに主力部隊を失ってしまった。その海戦で勝負がついて、陸上戦でも百済側の抵抗勢力は壊滅した。総司令官であるべき豊璋は逃げ出してしまい、その役を果たさなかったとされる。

新羅から見れば、開発途上国の倭国に逃げていた百済と加耶の残党どもが朝鮮半島にのこのこやって来たのに対し、先進国・唐の近代的な水軍のちからを借りてやすやすとそれを撃破したことになる。

 

倭国政府には、百済救済という建前の裏に、新羅に対する対抗意識があったとみなさなければならない。天皇家はもともと朝鮮半島南部に存在していた加耶(かや)加羅(から)ともいう)の出身であり、渡来集団のリーダーとして海を渡ってきた。彼らは加耶を、本国という意味の(みまな)とも呼んでいた。半島では国境を接した新羅の王朝とは敵対関係にあった。彼らは、半島において、とうの昔に新羅に攻め滅ぼされた宗主国・加耶(562年、加耶諸国はすべて新羅に併合された)の再興を図るということを長年の宿願としていたから、この年代でも倭国政府にその意図がまだあったと思われる。白村江に出兵した真の目的は、もはや政権の形を成していなかった百済を救援するというよりも、「打倒新羅」にあったというべきだろう。新羅は、かつての宗主国の宿敵だったのだ。あわよくば新羅を打倒して、宗主国の地を取り戻そうとしたのだ。ただし、百済の残党と手を組んだ倭国軍に、新羅・唐の連合軍に対し、勝ち目があったかどうかは、限りなくあやしい。勝算のない戦いであったけれど、あえて兵を出したのは、本国・本貫の地への思い入れが強くあったせいだろう。倭国政府の要人たちに、ある種の望郷の念があり、宗主国だった百済と加耶の再興のために、あえて兵を出したことが考えられる。

百済王子の豊璋(ほうしょう)が本国から離れて、なぜ倭国にいたのかというと、百済側の植民地経営のための豪族の一人だったと考えるべきだろう。百済派の倭国政権が、そのVIP(最重要人物)として宗主国から王子を迎え入れていた、と私はみている。(豊璋は人質だったという学説があるが、それは信じがたい)

斉明天皇が陣頭指揮を執ったのは、朝廷内に、それに反対する意見があり(反対勢力)、それを押し切るためにも、自ら先頭に立たなければならなかったから、とみるべきだろう。反対勢力とは、もちろん新羅派の人々だ。

戦いをしかけた倭国としては、今度は逆に新羅・唐連合軍が倭国領に攻め入ることに備えなければならなかった。倭国軍が大挙して海を渡ったように、新羅軍が押し寄せてくることは大いにありうることだった。皇位を継いだ天智天皇が、667年3月、都を奈良の飛鳥から近江に移したのも、都の防御を考えてのことだと言われている。さらに九州・大宰府に水城を造成し、瀬戸内海の各地には、侵入してくるあろう敵との戦いに備えた砦(朝鮮式山城。それ以前にも原型はあったとされる)を整備したし、東国方面から徴発された、より多くの人々が「防人(さきもり)」として、九州方面の防備の強化に遣わされた。白村江の戦いの「A級戦犯」でもあった天智天皇は、新羅からの反攻を恐れていたのだ。弱体化した倭国軍を立て直すためにも、ひたすら守りを固めるしかなかったのだろう。

 

3.壬申(じんしん)の乱

天智天皇は、母の斉明天皇崩御後、称制して政治の実権を握り、近江に都(大津宮)を移し、668年に正式に即位した。百済派政権を引き継いだ形だった。百済と友好な関係を築いた、いわば、百済派の天皇だった。全国的な戸籍として日本最初の庚午年籍を作らせるなど、内政面で国家の基礎を築いた天皇の一人だが、671年12月に即位後三年で崩御した。その心残りは、後継者問題だったろう。二人の有力候補がいた。息子の大友(おおとも)皇子と弟の大海人(おおあま)皇子だった。天智天皇は崩御前に、大友皇子に皇位を継がせる意向を明確に示していたのだから、正式な皇位継承権は、当然、大友皇子にあったのだろう。大友皇子の皇位継承については、国史の日本書紀には記されていないことだが(故意に書かれなかったと考えるべき)、ようやく明治時代になってから、即位したとみなされ、弘文天皇と追諡(ついし)された。

671年に、病床にあった天智天皇は、大海人皇子を呼び寄せ、皇位をねらう意欲がないことを確かめた。大海人皇子は、その意図を察すると、自分は出家すると言いつくろって、吉野に引きこもった。皇位継承権を放棄したことになる。しかし、彼は権勢欲を捨てたわけではなかった。その後に、大友皇子が皇位に就くのをねたむかのように、その近江政権に反旗を翻し、武力闘争に打って出ることになる。

ただし、彼自身の、皇位をねらう意欲より、彼の元に集まった人たちの「打倒近江政権」の意欲がもっと強かったと考えるべきだろう。反近江政権の人たちとは、倭国が新羅・唐連合軍との戦いの際に、出兵することに気乗りしなかった人たちだ。むしろ戦っては困る人たち、つまり国内の新羅派の人たちだったにちがいない。むしろ、彼らが、吉野に隠棲した大海人皇子を引っ張り出し、自分たちの目的のためにかつぎ上げたのだろう。彼らは、倭国においては真の多数派ではなかったにしろ、朝鮮半島での「統一新羅」の勢いに乗って、政権打倒に走ったと考えられる。列島でも新羅派の人たちが元気を得て、美濃・三河を中心とする反政府勢力を結集し、大海人皇子をかつぎあげ、近江政権を打倒するたくらみを実行に移したのだろう。

672年6月、機が熟して、壬申の乱が勃発した。それは大海人皇子が吉野から脱出することで始まった。それに呼応するかのように、一斉蜂起するかのごとく、反政府勢力が動いた。うわべでは、大海人皇子側が兵を挙げる形だったが、反政府勢力側から大海人皇子に何らかの連絡が入ったことがきっかけだったと考えられる。それらは、計画的、かつ隠密裏に進められたことが推測される。手薄な方面からの(琵琶湖東岸からの)先制攻撃的な展開が功を奏したし、先に交通の要衝を抑えるなど、手際のよい組織的な戦略だった。日本書紀にはそれらのことが詳細に記録されている。まるで計画書のごとく……。一カ月の激戦の後、近江政権を攻め倒した。反乱軍・大海人皇子側の大勝利となった。

大友皇子はそのとき、天智天皇の死後半年がたっており、すでに即位して天皇の地位にあったとする文献もあるから(「扶桑略記」など)、弘文天皇と呼ぶべきだが、彼は反乱を制圧することができず、反乱軍に敗れ去った不名誉な天皇ということになる。日本書紀での、皇子のままで逃走の果てに自殺したという記述内容が、せめてもの思いやりのようだ。

一方で、出家したと世間を(あざむ)きながら、当代の天皇を打倒して、自分が天皇の位に就いてしまった「ふとどきもの」が大海人皇子ということになる。反乱軍であっても、勝てば「官軍」だ。天武天皇の皇位継承の正当性を裏づけるために、日本書紀(720年撰)などの国史の編修者は苦労したことがうかがえる。

 

新羅は、百済攻略に続いて、668年には高句麗との戦いにも勝利していた。しかし、その後は唐との関係を悪化させたから、倭国に勢力を伸ばす余裕はなかった。唐を半島からやっと追い出して、朝鮮半島全体の国として「統一新羅」を樹立したのは676年になってからだった。

新羅は倭国へ直接武力進出をしなかったけれど、百済寄りだった倭国政府に対し、倭国内の反政府勢力を結集させた、あるいは裏から支援したという推測も成り立ちそうだ。朝鮮半島で新羅の覇権が確実になったことは、倭国内の新羅派の勢力が励まされ、672年にクーデターを企てるきっかけを与えたことだろう。彼らには、近江政権が百済官人を多く登用したことへの反発もあったろうし、白村江の戦いでの強引な徴兵と敗戦により、政権の方針に大いに不満が募っていたことも確かだった。結果的に新羅は、百済派の倭国政府を内から切り崩すことに成功したことになる。

大海人皇子は、飛鳥で即位し、天武(てんむ)天皇として政治の実権を握った(在位673〜686)。それからは、新羅との交流が盛んになる。天武天皇自身が個人的に新羅との縁故やコネをもっていたかどうかは不明だが、新羅との友好関係を築いていった。彼をかつぎ上げ、皇位に上らせてくれた人々の意に沿うように取り計らったのだろう。新羅との国交を盛んにした結果、新羅王子が倭国にやってきたりしている。新羅に対して警戒を怠りなく、対決姿勢を見せていた近江政権では、こうは行かなかっただろう。新羅派の人たちが壬申の乱に勝利したことで、倭国は新羅の同盟国のような関係になった。新羅からの侵攻に備える必要もなくなった。

このころ、政府は自らの国号の漢字表記を「倭」から「日本」に改定している。日本という国号は、いかにも新羅の同盟国らしい。なぜなら新羅の古い国名のひとつが「日本」だったというのだから。

ともあれ、その後は、朝廷の中枢に深く入り込んだ藤原氏が政治の実権を握る時代(摂関政治)が来て、藤原氏が、かつての蘇我氏のように天皇をしのぐ権勢をふるう。その時代が長く続くと、国内の百済派と新羅派という対立軸が不鮮明になってくる。渡来人の流入も少なくなり、朝鮮半島との関係が以前の時代より浅くなる。

 

 

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