映画評「ドクトル・ジバゴ」                                                                岡森利幸   2011/6/7

                                                                       R1-2011/6/26

この映画は、ロシア革命前後の時代を背景にし、苦難の半生を送った男ユーリー・ジバゴを主人公にした物語だ。彼が子どもの頃に母が死に、形見にバラライカ(弦楽器の一種)ひとつが残される。彼は親類の家に引き取られ、やがて成人する。家族はロシアの上級階級に属し、裕福な暮らしぶりで、彼も十分な教育を受けて、医者の資格を得る。医者になってから、それにふさわしいような女性トーニャ(大学教授の養父の娘)と結婚するが、彼はもう一人の女性との接点をもつようになる。

その女性は仕立屋の娘で、17歳のラーラ・アンティボバだった。帝政ロシアから共産主義への革命機運が高まっていた時代だった。彼女の許婚バーシャは、労働者のデモ行進をあおるようなインテリ青年だった。彼女にはそんな許婚がありながら、弁護士で地位も金もある中年男のコマロフスキーの誘いを断れず、パーティに誘い出されたりして、コマロフスキーと深い関係を持つことになる。コマロフスキーから逃れるために、バーシャとラーラは、まるで駆け落ちするように、地方に移り住むことになる。バーシャも官憲に追われていた。

第一次世界大戦の勃発で、ジバコは軍医として従軍する。バーシャはまっ先に徴兵され、その後、戦場で行方不明となる。行方不明の夫を探すため看護師として志願していたラーラは、ジバコに出会い、軍医と看護師の関係を続けるが、二人の心は接近する。

ドイツとの戦いを終えると、ロシアは帝政を打倒し、革命を成し遂げた。ジバコもモスクワの家族の元へ戻った。しかしながら、ジバゴ夫妻の身辺では、革命政権の官僚たちの指示で彼らの邸宅や家財道具さえも奪われるような状態になり、モスクワを脱出する決意をする。子供を連れ、ウラル山脈を越える長い旅路の果て、生活が裕福だった頃の別荘があった地に移り住む。しばらくすると、町に出た際にジバゴはラーラと偶然に再会する――

ラーラを巡る3人の男たちはそれぞれに力をつけ、その力を見せ付けるようにラーラの前に現れる。ジバゴは医師として野戦病院で腕を振るったし、コマロフスキーは地方政府に登用され、政治的な力をたくわえていた。戦死したと思われていたバーシャは、ストレルニコフと名を変え、武装勢力のリーダーとして名をはせていた(悪名をとどろかせていた)。

よい妻子がありながら、ラーラを愛するようになったジバゴ、ラーラを執拗につけねらうコマロフスキー、ゲリラ戦を展開しながらもラーラを妻として思い続けるバーシャの3人の男が、それぞれラーラに近づいたり離れたりして物語が進んでゆく。彼ら3人は死ぬまで、ラーラを追い続けることになる。特にジバゴは死ぬ直前まで……。ラーラがこの物語の真の中心人物であることは間違いない。男たちの心を射止めてしまう魅力を持つ魔性の女のようだ。3人の男はラーラのために身を滅ぼすようなことをしている。それに引き換え、ラーラは男たちを受け入れながらも自立して生きて行くたくましさをもっている、と私には感じられた。

 

原作者はロシア人のボリス・パステルナークで、ロシア(当時ソビエト)国内では体制に批判的だということで出版するのに当局から規制を受けたとされる。確かにこの映画でも、帝政に苦しめられたロシアの一般労働者や農民たちが革命をようやく成し遂げたのに、帝政よりも冷徹で専制的な政権が統制を強めるという「皮肉な社会現象」が描き込まれている。その主義に反するとして、政権にとって不都合と思われた人々の多くのを粛清・弾圧をし始めた。ロシア社会は体制的には変わらず、トップが入れ替わっただけという印象を持たせている。

非常によくできた映画(アメリカ・MGM社1965年製作)だ。20世紀前半のロシアの情景が細密によく描かれている。私は6月7日に海老名市の映画館へ行って大画面で観た。こういった3時間を越す長編の映画は見ごたえがあり、久々に感動した。観客席に居ながらも、悲惨な戦闘シーンに目をおおい、凍りつく冬の寒さに震え、人々が押し込まれた列車の貨車の中で糞尿にまみれた(わら)の臭いまでもが銀幕から漂って来そうだった。でも、全般的に節度をわきまえた映像表現となっている。

ただし、映画の出だしは真っ暗で、何も見えない状態で約5分の演奏だけが前面の大型スピーカーから鳴り響く。この演出は監督の「趣味」だろうが、私の趣味には合わない。(真っ暗だから、遅れて観客席に来た人が自分の指定席を見つけるのに一苦労だ――冗談半分)。それに引き続き、映画は「後日談」のようなシーンから始まる。いきなり後日談では分かりにくいので、解説を加えると、つまり、ラーラを巡る3人の男が死んだ後、ジバゴの兄という人物(高級将校)が、ジバゴの忘れ形見とされる娘を探しあて、その成長した娘に対面し、親子が離れ離れになった真相を聞きだそうとする。それはいったん途切れて、本編に入る。その対面シーンは映画の最後に引き継がれる。すべてが語られた後、娘はバラライカを持ってその許婚の若い男とともに立ち去っていく……。バラライカが、映画テーマ曲とともに、この映画の中でもう一つの主役なのだ。

 

 

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