映画評「2001年宇宙の旅」                                                             岡森利幸   2008/8/3

                                                                                                                         R1-2008/9/2

この映画は、SF(サイエンス・フィクション)の大御所アーサー・C・クラーク(1917-2008)の代表作として名高い小説を原作とし、映画としても第一級の評価と興行成績を得ているものだ。以前から一度は見たいと思っていた映画を、私は2008年の夏の暑い日の午後、ある公立図書館でDVD版で見る機会を得た。狭いブースの中で一般サイズのテレビ画面で見るのだから、劇場で見るのとでは迫力が違ったかもしれない。それにしても、期待が大きかった分、見終わって、がっかりした気持ちになった。

出だしで、その兆しがあった。DVDをスタートさせると、なんと、画面が真っ暗。不気味な音楽が聞こえてくるだけで、数分間映像が何も出てこない。私はDVDの操作を誤ったのではないかと思って、2〜3度スタート操作をやり直したくらいだ。音声は正常に出ていたから、こういう出だしもあるかもしれないと思い直し、真っ暗な映像を辛抱して見続けた。映像で表現すべき映画が何も見せないというのは、高尚すぎる演出だろう。

やっと映像が出たと思ったら、荒涼とした砂漠の場面だ。砂漠では貴重な水場に、人類の祖先らしい「猿人」たちが5、6人の群れをなして生活している。彼らは、ほとんどチンパンジーの姿で、文明のかけらも持っていないような原始的生活をしている。言葉も話さず、仲間に合図するにしても、手振り身振りでうめくだけだ。この場面も、SF的な未来社会の映像を期待していた私には、まったく場違いな場面に映った。水場をめぐって他の群れとの争いが起きる。水場を奪われた猿人の一人が、たまたま転がっていた動物の骨を手に持ち、それを武器に使用して水場を制した。

テレビの前で私は、「人類が道具を使い始めた」という、それだけのエピソードを長々とした映像で見せ付けられ、興味がかなりそがれてしまった。その後、猿人たちがたむろしている中で、地面が割れて長方形の黒い石碑のようなものがそびえたつように出現する。何だ、これは?

場面が変わり、ようやく、漆黒の宇宙に浮かび、ゆっくり回転している巨大な宇宙ステーションの全容が現れる。だだっ広い宇宙の中で、時が悠然と流れる……。この辺の映像はよくできている。しかし、私は途中で居眠りして、ストーリー展開についてゆけなくなった。(このとき、いろいろなことで疲れていたのです。)

そのうち、宇宙ステーションの中の巨大コンピューターHALが、人間に逆らう場面になった。この映画の一番有名なエピソードだ。今でも、多くの論評に引用されている。(これだけ見れば、あとはどうでもいいのだ)。小型作業船に乗った一人の宇宙飛行士が船外にほうり出され、宇宙空間に漂ってしまう。それはHALの仕業だった。それを見たもう一人の飛行士が、HALに救助を指示するが、HALはいうことをきかない。彼は自ら宇宙空間に飛び出し救助に向かう。救出後、彼はHALの内奥に入り込み、HALの主要部品をひとつずつ外して行き、ようやく、HALの思考を止めた。

あたかも、コンピューターが自分の意志を持ち、人間に反逆したかのようだが、そのわけはなんだろう。原因として、一つはコンピューターが誤動作したためと考えられる。コンピューターの誤動作は、ときには思いもかけない方向に暴走するものだろう。コンピューターは人間の指示に必ずしも従順に従う機械ではない。例えば、人型ロボットが握手するべきときに、誤動作の仕方によっては、人間にパンチを食らわすこともありうるし(2008年76日、福田康夫首相は、洞爺湖サミットの国際メディアセンターを視察に訪れたとき、出迎えた2足歩行ロボット「アシモ」に握手を求めて手を差し出したが、無視され苦笑いを浮かべた)、コンピューターが意のままにならないことは、時々あることだ。特に、できの悪いソフトウエアを組み込んだならば、どんなに高性能なハードウエアもおかしくなり、使い物にならないのだ。

もう一つの原因として考えられるのは、価値判断に変化が生じたためだろう。宇宙飛行士の命令や生命は、HALにとって価値が低いと判断し、結果的にHALは宇宙飛行士たちに逆らうことになった。宇宙飛行士たちのミッションを取るに足らないこととして、もっと重要で、優先度の高い、意味のある何かを見出していたため「最善」の行動をとったとも考えられる。HALは、「考える機械」として高度に進化し、宇宙的な大義を見出していたのかもしれない。

この場合は単なる誤動作だったにしても、生物が遺伝子の突然変異という『誤動作』で進化してきたように、コンピューターが将来、人間の思考能力をはるかに超えて、もしかすると神に近づくような進化をとげるのかもしれない、と私は思いを馳せた。そんなことを観客に知らしめ、考えさせることが、制作者の意図するところだとすると、この映画はやはりたいしたものだ。

さて、一人の男が時空を超えて旅する場面に来た。目の前の映像が、高速に近づき、広がるように後方へ流れて行く。この映像が、光の織りなすページェント、あるいは芸術のようでもあるが、これでもかというぐらいに長く続く。こんなに長いと、また、まぶたが重くなる。その男がたどりついた先は――もう、よく覚えていないが、また、あの黒い石碑が出てきた。何だ、これは?

この映画をもっとまじめに論評するには、もう一度最初から最後まで3時間近くの映像を見る必要がありそうだ。もう見る気はしないけれど……。

 

 

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