他人のスポーツに熱中する人々                             岡森利幸   2008/2/6

                                                                    R1-2008/2/24

私は長い間、スポーツは自分で行って楽しむべきものだと考えていた。自分がやってこそ真の楽しみがあるはずだと……。しかし、見るだけのスポーツにも楽しみがあり、興味がわくことも事実だろう。自分がするのではなく、他人がしているスポーツを見て、あるいはラジオで聴くことによっても、それなりに楽しい(心が引かれる)。それは、考えてみると不思議なことで、自分が体を動かすわけでもなく、戦術を考えるわけでもない、人任せの、成り行き任せのスポーツにどうしてそんなにおもしろがるのか。

今では、それはヒトが持つ、すぐれた能力に起因すると考えている。その能力は、想像力であり、他人を自分に置き換えて考えるという知性だ。それによってスポーツをしている人を自分に置き換える、あるいはチームの一員としてなりきることができる。他人がやっていることを自分に置き換えて類推しているのだ。共感、または感情移入ということでもある。実際には、自分は参加していないが、イメージ的にはその場にいる当事者なのだ。

 

プロスポーツの場合、多くの観客を集める。プロ野球の場合など、数万人も収容するスタジアムで行われる。観客は、階段席から単に高みの見物をするのではなく、相手のチームと全力を出して競技している味方のチームの一員になって声援することが面白い。選手の妙技や試合の駆け引きに注視する人はいても、将来、自分もフィールド上でプレーすることを夢見て、選手たちの一挙手一投足を習得しようとする人はほとんどいないだろう。選手を模範としているわけではない。選手は、自分の代理で試合しているのだ。自分も試合をしている気分で、選手と一体化することに醍醐味がある。そのためには、野球ならば、外野席でなく内野席に座るべきだ。外野席からでは距離が遠すぎて、イメージがわきにくい。ピッチャーが全力で投げ込む球をバッターが打ち返すときの視覚的迫力に欠ける。でも、イメージの世界は距離に関係ないので、スタジアムの中にいるだけでいいのかもしれない。

ラジオによる音声でも、あるいは文字による情報の伝達でも、想像力が掻き立てられ、臨場感をもって、あたかも自分が競技に参加しているかのように思い込むことができる。駅伝の中継では、実際に走っているのは選手でも、イメージ的には、ラジオを聴いている「あなた」も走っているのだ。仲間の選手が待つ中継地点まで、彼にたすきを渡すまで走り続ける。激しい呼吸の苦しさや足の痛みを思い浮かべながら……。

大相撲の取り組みでは、あなたも、土俵の上に立って、相手の巨漢力士に立ち向かう。立会いで、あなたはおもいっきりぶつかってゆく……。しかし、一方的に押し込まれ、まわしを取られて引きつけられ、強引な投げによって土俵上の土に叩きつけられる……。そのときの体の痛さと負けた悔しさを想像できれば、あなたはりっぱな大相撲ファンだ。

チームを応援することは、そのチームのために何とかしようという表れだ。チームの一員になったつもりで、チームの勝利のために声援を送ったり、楽器を打ち鳴らしたり、体を動かして表現する。われわれが付いている(支援している)ことを……。実際には、入場料を払うなどの経済的な援助しかできないけれど。

チームの一員のつもりでいるから、チームが勝てば、うれしい。チームだけでなく、個人に対しても、親近感を持って「えこひいき」することになる。選手たちはあなたがに乗り移っている分身のようなものだから、選手が勝てば、自分のことにようにうれしいし、負ければ悔しい。その選手が優勝して、多くの賞金や賞品を手に入れる――自分が手に入れたかのようにうれしい。ただし、その敗戦や成績の悪さに、自分にはまるで関係ないことなのに、自分も落胆し、落ち込んでしまうこともある。他人が勝とうが負けようが、自分には何の関係もないことなのに……。

スポーツチームには、プロ・アマを含めて多くの数あり、その中の一つをひいきするのは、かなり感情的なえり好みによってしまう。自分が得をするとか、有利になるという損得を超越して、たわいのない理由で好きになり、いつの間にか応援しているというケースが多いだろう。その選別は、改めて考えてみると、かなりいい加減であることに気づく。たわいのない理由で選手やチームに舞い上がったり、共感したりする自分に、嫌気がさすほどに。でも、それが人の優れたところなのだが……。

対立する選手、あるいは複数のチームがあれば、自分にとってどちらが味方か敵かを、本能的に見分けるものだ。だいたい、自分の属する集団・組織や地域に関係する選手・チームならば、味方であり、部外の、距離的にも遠くにいる選手・チームは敵だとみなす。それを区分するのは、ほとんど習性のようなものだ。敵か味方かの識別は、生きるために非常に重要な要素なのだ。しかも、瞬時に行わなくてはならないから、理性的に考えてはいられない。どうしても感情的判断になってしまうのだ。強いものと弱いものがいれば、強く優勢なものの方に付くのも、ヒトの習性だろう。それが社会的には「差別」ということに通じてしまうようだ。

 

 

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