呼吸させる機械                                                                                        岡森利幸   2006.4.3

                                                                                                                                 R4-2006.8.11

「息を引き取る」という表現がある。これは人の死を意味している言葉だ。旧来では、そのまま病気や事故によって息を引き取ってから数分後、医者が患者の手首を取り、脈がないことを確認して、「ご臨終です」ということだった。しかし、現代では、死はすぐにやって来ない。

科学技術の進歩により、どこの病院にも人工呼吸器という医療器具が置かれ、自発的呼吸が止まっても、機械的に空気を肺に送り込み、そしてその空気を吐き出させることができる。その他、血液に栄養を送り込むための器具や、垂れ流し的な排泄のための器具も用意されている。しかし、それらは、あくまでも補助的であり、人の生命の維持には、呼吸と血液循環が主役となる。

患者が呼吸不全になると、医師たちは医療として当然のことながら、人工呼吸器を用いることにするだろう。しかし、人工呼吸器をつけると、外すタイミングが問題になる。呼吸不全の、あるいは自発呼吸のできなくなった患者は、人工呼吸器を外すと、死に直結するからだ。それは、殺人という行為とみなされるかも知れない。現に、北海道立羽幌病院で平成16年2月に、末期患者の人工呼吸器を外した女性医師が家族の同意を得ながらも、殺人容疑で書類送検された――*1。医師一人の判断で人工呼吸器を停止したことが、違法性が問われた要因だったようだ。

3月に富山県の病院で、1人の医師が独断で何人かの患者の人工呼吸器を外したことが明らかになり、事件としてメディアに取り扱われた後、富山県では複数の病院が「救命目的で取り付けた人工呼吸器は心停止まで外さない」と決めたという。しかし、救命目的と延命目的の区分は微妙なところだろう。(富山県では死にたくないものだ――独り言)

呼吸が止まっても、管で体に栄養補給され、人工呼吸器で酸素と二酸化炭素の交換をしていれば、かつ、心臓自体に障害がなければ、心臓はなかなか止まらないという。ほとんど筋肉でできている心臓はいつまでも動き続ける――*2。さめた言い方をすれば、昏睡状態になっても、2、3週間はもつ。条件がよければ、数カ月も心臓だけは動いている。免疫機能の低下による感染症や、腎臓機能の低下による尿毒症などにも、面倒見のよい病院は対応してくれる。何と、一時的に心臓が止まっても、それなりの施術(電気ショックや蘇生のための薬の投与など)をしてくれる大病院もある。その数カ月がどれだけの長さであるか、どれだけの意味をもつものかは、現場に立ち会わなければ誰にもわからないだろう。

人工呼吸器のために、のどのところで気管が切開され、太い管が入れられる。その間、病人は、ベッドに横たわったまま、大声で呼びかけても反応せず、身動きもせず、多くの点滴液などの管につながれ、多くの計器に囲まれての、親族にとっては非常に「見ていられない状態」が続く。人工呼吸は、回復する見込みがあれば、当然有効な措置であり、治療に必要なものだ。しかし、その見込みもなく、心臓が弱りきるまで、機械的に営々と呼吸させてるのは、不自然な形ではないだろうか。それは「自然死」を妨げているだけだろう。まるで、実験室で細胞組織を培養するかのように、人工的に血液中に酸素を送り込んで心臓を動かしている。

法的には、1995年に横浜地方裁判所で下された東海大学病院事件での判決が、治療中止の要件を示しているという。その要件とは、2006年3月26日・毎日新聞朝刊の一面の記事の一部を引用すると、

@死が不可避な末期状態

A患者の意志表示(家族による推定も含む)

B自然の死を迎えさせる目的に沿って中止を決める

 

親族の同意が求められるケースが多くなったようだ。家族の心情として、人工呼吸器を外す決心は「つらいこと」かもしれない。しかし、患者本人が自発的な呼吸を止めているのは、言葉以上の「真意」を示していることではないだろうか。もう自分の意志を言葉で伝えることもできなくなり、自然な形の死を迎えることもできないでいる父や母になり代わって、子供のあなたが、中止を決めなければいけないだろう。医者に対して「(延命措置は)もう十分です」と言うことが、親に対する最期の判断になるだろう。

人工呼吸器は、治療効果というより、延命効果を多大にもっていることは確かである。「延命治療」という言葉があるが、「延命」は、「治療」と切り離して考えるべきだろう。治療が伴わない延命措置があるからだ。治療になっていない『延命措置』にどれだけ意味があるのだろうか。終末医療の一環として、延命措置のために人工呼吸器は用いないという選択肢が、患者にあってもいいだろう。

人工呼吸器という医療の進歩が、法的なルール作りの遅れを招いたものだ。危篤状態の患者に人工呼吸器を使う場合、自発呼吸が一定期間以上停止したままで回復する見込みがないならば、それを外すというルール作りが必要だ。一定期間というのは、患者の病状や老若に関係するだろう。判断基準が難しいことかもしれないが、それは家族の同意のあるなしに無関係に、医師の(医師たちの)判断で主体的にできることだ。人工呼吸器外しのような医療措置が、裁判所の判例としてではなく、少なくとも、刑法に触れる行為ではないことを法的に明記すべきだろう。厚生労働省がそんな終末期医療のあり方の法制やガイドラインを策定しようとしているらしいが、いつになることやら、もどかしいかぎりだ。

 

*1.その後、患者が90歳という高齢であったことや、複数の医師の鑑定で、呼吸器を外さなくても、その患者がほぼ脳死状態であり、数十分後に死亡しただろうということから、容疑の医師は不起訴になった。

*2.心臓は中枢神経の制御を直接的に受けないから、中枢部の働きが弱まっても、自立的に動き続ける。心拍数を高めるなどの調節は、ミクロなシグナル伝達物質を介して間接的に行われる。

 

 

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