報道の自由と憲法改正

岡森 利幸 2006.05.03

 

今、国会では、憲法改正のための国民投票制度の原案を検討している。その制度の中で、まるで『報道規制』のような、報道関係者に対する訓示規定(メディア規制条項とも言う)が盛り込まれようとしている。それは、事実を歪曲した報道などをしないよう報道側に自主的な取り組みを求めるものだ。「自主的」とは言いながら、実質的には政府の報道に対する圧力だろう。「改正に反対する人の意見など、報道するなよ」という意味のものだろう。これでは、政府の思いのままに国民を仕向ける、一種のマインドコントロールを行うための、前準備のようなものだろう。反対意見を押さえ込むための意図が見え見えである。

4月27日、衆院憲法調査特別委員会で、日本新聞協会編集小委員会の楢崎憲二委員長は「憲法改正は、幅広く国民的論議が求められるテーマだ。自由な報道を通じて国民の間で活発な議論が展開される必要がある。自主的な取り組みを求めることを法律で書くことが矛盾している。広告についても、自由な意見表明を阻害するような規制には反対だ」と述べた――毎日新聞夕刊2006年4月27日のページ10より引用。

そのとおりだろう。広告についても規制の対象にされるとは、驚きだ。

憲法という国民にとってもっとも重要な法律の改定を行うのに、メディアが「多種多様の意見」を取り上げなかったら、多くの国民は、判断材料を持たず、いいかげんな判断をしてしまうだろう。逆に、政府は、国民に判断材料を与えず、考えさせず、憲法改正案をすんなり通したいのだろう。そのためにはメディアを手なづけておく必要があるのだろう。改正をもくろむ議員たちは、国民の間で、改正反対運動が沸き起こったら、憲法改正案が通るどころか、政党基盤も揺らぎかねなないという恐れも感じているかもしれない。彼らにとって、反対意見はすべて事実を歪曲しているものだろう。それを封じ込めようと報道規制するのは、陰謀というものだろう。

政府が報道規制することは、民主主義の根幹を揺るがすことになる。報道規制すれば、政府が強権を発動するまでもなく、国民を蚊帳の外に置いて、主導すること(勝手なこと)ができる。それでは、『官主主義』になってしまうだろう。それは国民に「知らしめるな」というものだ。国民の知る権利の侵害でもあろう。自由な報道がなければ、不明確な部分がますます増えてしまう。

憲法の条文の解釈は、一般国民にとって易しいものではなく、難しいだろう。すべての国民(少なくとも有権者の人々)が、改正されようとする条文の裏に隠れた意図や理由をどれだけ理解するだろうか。現状の条文の問題点は何か、なぜ改正する必要があるのか、それをもっとも必要としているのは誰なのか、改正された条文により何が可能になるのか、われわれ国民の権利や義務がどう変わるのか。

メディアが報道を控えたならば、多くの疑問や問題点が国民に不明のまま、憲法改正承認の投票の日を迎えることになるだろう。自由な議論がなく、論議が盛り上がらない国民投票は、政府の思う壺だろう。

 

私には、ぜひ改正してもらいたい憲法の条文が一つある。それは、『第二十一条 集会、結社及び言論、出版その他一切の表現の自由は、これを保障する。検閲は、これをしてはならない。通信の秘密は、これを侵してはならない』の部分である。この条文の原文では、

Freedom of assembly and association as well as speech, press and all other forms of expression are guaranteed. No censorship shall be maintained, nor shall the secrecy of any means of communication be violated.

となっている。

press』を『出版』と訳されているところを、『報道』と訳し直してもらいたいのだ。「報道の自由」が真の意味だろうから。

 

 

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