大化改新の功により天智天皇より藤原の氏を賜った鎌足の曽孫魚名四世の孫で、下野国佐野庄に居を定め、平安時代中期(西暦940)、平将門の乱を平貞盛と協力して平定し、下野・武蔵の国守となった、鎮守府将軍藤原秀郷公の直系、佐野氏の初代佐野基綱公の弟阿曽沼民部丞四郎廣綱は、今から約八百年前の鎌倉時代初期、寿永の頃(西暦1182〜)佐野の阿曽沼郷(現在の浅沼町)に城を築き、阿曽沼・浅沼・阿曽沼流佐野等諸氏の一祖となりました。鎌倉時代の史書『吾妻鏡』にしばしば登場し、戦功を立てた阿曽沼は頼朝の絶対の信頼を得ました。佐野一党では抜きん出た御家人の地位におさまった頃、民部丞廣綱は将軍頼朝の許しを得て、鎌倉から八幡宮を勧請し、城の守護神として祀りました。阿曽沼の氏神であり、栄華の証でもありました。
阿曽沼城守護神  浅沼八幡宮

抜丸の太刀
その後、勝道上人によって開かれた日光山は、中世のころ下野の武将等に厚く信仰されていました。建治2年(西暦1276)に佐野安房兵衛次郎藤原氏綱は国家の安泰を願って、日光二荒山神社に「抜丸の太刀」(国の重要文化財指定)を奉納しました。この太刀は神社の社宝となり、現在日光二荒山神社中宮祠博物館に所蔵されております。氏綱については、阿曽沼氏綱とみる説が定説となっています。
浅沼八幡宮の主祭神は誉田別命(応神天皇)で、配神は七柱、その中に大塔宮護良親王を祀ったと伝えられる石宮があります。護良親王は、後醍醐天皇の第一皇子に生まれ鎌倉幕府打倒に尽くされた皇族で、足利尊氏と対立を深めたことで鎌倉に流され、建武2年(西暦1335)に殺害されました。この時親王のそば近く仕えていた阿曽沼兼綱等七人の武士は秘かに親王の御首を奪い、阿曽沼城に戻り親王の御首を城内に埋葬し、祠を建て祀りましたが、世をはばかり「安蘇宮」と称していました。現在は「大塔宮」と称しています。
大塔宮

熊野御師文書
南北朝合一後の応永32年(西暦1425)の熊野御師文書に浅沼一族の熊野信仰のことが記述されています。慶長19年(西暦1614)佐野家改易により浅沼一族も浅沼の地を去り、その一つは長野原にこれらの信仰を持って移住し、長野原城跡秋葉山出丸跡に祀られていた秋葉の神、三尺坊威徳大権現の天狗信仰と共存して、火防開運の神として、近在近郷の人々に尊崇されております。
このような歴史を経て、天狗岩神社には佐野市唐澤山城の天狗岩に祀られている神々(天之御中主神・高御産巣日神・神産巣日神)、佐野市浅沼八幡宮の神々、長野原城秋葉山の神々が合祀されております。
Copyright (C) 2009 天狗岩神社. All Rights Reserved.