D'Artagnan物語・三銃士T

フロンドの乱 レス枢機卿(Retz.Jean Franqois Paul de Gondi,Cardinal de)

ゴンディという名がとりあえず歴史上に登場してくるのは、ヴェルサイユVersailles宮殿に関してである。
ヴェルサイユには中世から人が住み着き、荒れ地を開き作物を作っていたが、フィレンツェFlorenceの名門出身であるジャン・フランソワ・ド・ゴンディは1575年からヴェルサイユの領主であった。
この人物が最初のパリ大司教である。
そして1632年4月8日にド・ゴンディの領地と「荒れ果てた古い館」を60,000リーブル(およそ6000万円)でルイ13世は買い取ったのである。
尚、ルイ13世は他の土地を1631年に17人の地主から26,000リーブルで購入している。
(ヴェルサイユ宮殿の歴史・クレール・コンスタン・創元社2004)

さて、ゴンディ神父は後のレス枢機卿(Retz.Jean Franqois Paul de Gondi,Cardinal de)である。
三銃士の中では良く書かれていないが、フロンドの乱のうち1648-49にはパリ副司教(司教補)の地位にいた。
実は十数年も冷や飯を食い、運が悪ければ地方の一司祭で終わったかもしれない人物である。(有力者の息子としてそういうことはあり得ないが……)
このポール・ド・ゴンディは、成人した14歳の時パリのノートルダムNotre Dame教区付の司祭となった。しかし、17歳の時著した著書(La conjuration de Fissque 1665)が時のリシュリュー枢機卿の目にとまり危険人物と見なされたのである。
実際、史実では「聖職に反発して放縦な生活にふける」と書かれている。
名門の貴族階級に良くあることであるが、地方で少し謹慎ないし隠遁をさせると言う事がある。
ルーズベルトRoosevelt大統領も若い頃、妻と母を同時に失って西部に行ってカウホーイCowboyになった。只その格好が面白い。拳銃とライフルはティファニーTiffany製、最高級のバックスキンの服ともろもろ。若きゴンディ神父も似た様なものである。
豊富な小遣いに従僕付き、田舎の神父としては、何不自由なく暮らしていた。
但し、親族は復活のチャンスを狙っていたと思われる。
田舎に隠棲して30歳も過ぎたころ、ほんのちょっとした事件をきっかけにゴンディ派司教とその縁者によってパリに帰ることが出来たのである。
即ち、リシュリュー枢機卿と国王ルイ13世を動かし国王の遺言として、追放となったゴンディ神父はパリ副司教(司教補)という高い地位に突然大抜擢されたのである。
リシュリュー枢機卿も国王ルイ13世も死期が近く判断が鈍ったのかもしれないが、ゴンディ家の力がそれだけ強かったと言うことである。
このゴンディ神父は、苦節十数年という年月を決して無駄にしていない。ルーズベルトRoosevelt大統領がそうである様にゴンディ神父は、パリ市民を煽動し感化する力を得たのである。
ゴンディ神父は、有名な扇動家であり書物には政治家とある。
「三銃士」ではその弁論の周到さ、説教の名人というようなことも書いてあったように思う。
その後ゴンディ神父は…
フロンドの乱のうち1652年には、枢機卿(ブルターニュBretagne地方のレーの枢機卿)。
しかし同年マザラン枢機卿によって投獄された。
1654年にナントNantesで脱獄し同年にはパリ大司教となった。…とはいうもののスペイン、オランダ、イタリアと逃亡生活は続き、1661年マザラン枢機卿の死後ルイ14世に帰国を許された(1662年)。
そして同年パリ大司教職と交換に多くの聖職利権を得てコメルシCommercyに隠棲し「回想録」1717年などを執筆。1679年65歳にて死去。
ルイ14世は、パリ大司教が国王の贖罪司祭となるためにゴンディ神父にパリ大司教職に止まらせる訳には行かなかったのである。

このフロンドの乱に活躍した人物をみると、権力闘争というものの何故か皆似たような人物ばかりである。
その上人の好き嫌いだけで人選したり、同じ穴の狢で実務家やリシュリューのような優れた政治家はいなかった。

○当時の典型的な美女として知られるロングヴィル公爵夫人は、人見知りが激しく「身びいき」で妙に引っ込み思案だったりする。
又色々な人物にのめり込んだりとお嬢様根性がぬけない上に政治につきものの「駆け引き」や「表裏ある行動」というのには苦手と来ているし……
○ラ・ロシュフーコーもサロン好きで色々と物事に首をつっこみ、首尾一貫性がないうえに面倒くさがり屋で組織に入ることは苦手と来ている。フロンドの乱でバスチーュに投獄されたもののしょせん「遊び人」の口である。

しかし、このように人物像を見てみるとシュヴルーズ公爵夫人というのは突出した人物であった。
その肖像画から想像してみると当時のフランス王族の鼻デカ顔そのままなので何とも想像できなかったが、正論9月号2004に往年原節子の写真が出ていた。
そうシュヴルーズ公爵夫人というのは、原節子そっくりなのである。
その上、深窓の令嬢とはこういう人物を言うのだと誰もが思った女性であった。
ところが「三銃士」に書かれていたとおり、誰もがあこがれる深窓の令嬢然としたシュヴルーズ公爵夫人が、妙な「微妙で陰にこもったような言動」をする。
その結果は今まで書いてきたことであるが、このフロンドの乱の頃になると今までに比べ影響力は落ちると共に、表舞台から去って行くことになる。

いずれにせよこのころ「回想録」を書き残したサン・シモン公爵も、ルイ14世に関することは少々お追従の所があるので、史実と間違った記載がある文献に注意が必要である。



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