D'Artagnan物語・三銃士T

シャトレ裁判所と三銃士の素顔・素性   2004/07/23

小説「三銃士」に戻ってみると…ポルトスは「フロンドの乱」のころには、シャトレ裁判所代訴人未亡人・コナクール公爵夫人と結婚したと書かれてある。(実際には死別しているが)
…では、そのシャトレ裁判所と何であるのかをついでに説明する。

「シャトレ裁判所」(ジュリディクション・デュ・シャトレ)
パリの子爵領(ヴィコンテ)及び司法代官(国王直属行政長官)管轄区(プレヴォテ)の普通裁判所がグラン=シャトレ(ポン・トーシャンジュの元監視要塞)にあったことからこの名がある。
このシャトレの普通裁判所は(10世紀以降のフランク王国の侯爵、伯爵、大修道院長などの高官はいろいろなパリの行政権を子爵に譲渡した)パリの子爵が司法権を司法代官(国王直属行政長官)に委任して運用したものである。
今まで書いてきたようにパリは境界領主によって領主裁判を行っていたのであるが、1674年にこのパリに存在していた領主裁判権はすべてこのシャトレ裁判所の管轄下に統合して置かれることになった。

国王代官裁判所(バイヤージュ)
ところが、その後発令された数々の王令により境界線が明確に区分された領主8名に限り国王代官(バイイ)として国王代官裁判所(バイヤージュ)を組織した。
国王代官裁判所は、高級裁判権の象徴としてその管轄地区内に処刑台と晒し(さらし)台(ピロリ)を有したのである。
…………………………………………………
シャトレ裁判所は、国王の名において司法代官(国王直属行政長官)によっておこなわれていた。
司法代官は、フランス公爵(同輩公…王族・大貴族の称号・デュク・エ・ペール)の衣装(小さなコート、ケープに羽付帽子、指揮棒)を付けた。尚、任命者は高等法院上席評定官である。

成員は、
パリ司法代官(プレヴォ)
民事・刑事・パリ警察代理執行官(リュートナン・lientenant)
国王弁護士
国王代訴官
以上の高官は赤い法衣なので貴族待遇。
評定官以下総勢1600名弱。(黒の法衣)
部門
1.民事検察室(パルク・シヴィル)
   裁判長・民事代理執行官
2.上座裁判所(プレジタル)
   裁判長・特別代理執行官
3.民事部(シャンブル・シヴィル)
   裁判長・民事代理執行官
4.警察部(シャンブル・ド・ポリス)
   裁判長・パリ警察長官代理執行官(リュートナン・ジェネラル・ド・ポリス)
5.刑事部(シャンブル・クリミネル)
   裁判長・刑事代理執行官
6.短衣の刑事部(シャンブル・クリミネル・ド・ローブ・クルト)
   凶悪犯専門裁判所。
   裁判長・短衣の刑事代理執行官
   元軍人貴族出身で、歩兵隊を指揮した。
7.傍聴官部
8.国王代訴官部(シャンブル・デュ・プロキュルール・デュ・ロウ)
9.パリ総徴税区騎馬警察長官裁判所
   平和時の軍人の犯罪
…………………………………………………
尚、高級軍人は
軍事裁判所(ジュリディクション・ミリテール)
1.フランス元帥裁判所(コネタブリ・エ・マレショセ・ド・フランス)
2.フランス騎馬警察裁判所
   軍籍にある貴族の名誉に関わる係争。元帥邸で行われた。

その他主な裁判所
都市裁判所
教会裁判所
財務裁判所
商業裁判所
宮廷府長官裁判所
   宮廷全域の裁判権。国王陪食官に付随する名誉特権に関わる係争の審議。
   成員には90名の騎馬衛兵隊1中隊を含む。

その他……
    →→ (部分的に筆者が直訳した裁判所等の名称がある)

以上のようにくどくどと裁判所について述べて来たことは、「シャトレ裁判所」の裁判権はパリの一部しか及ばなかったと言うことである。 
 1674年領主裁判権はすべてこのシャトレ裁判所の管轄下に統合されることになったが、直ぐに王令により国王代官裁判所が出来、パリの領主8名が国王代官として1789年の大革命まで国王代官裁判所を組織しているのである。当然パリ以外は領主裁判権である。
…………………………………………
やっと ポルトスとシャトレ裁判所代訴人未亡人・コナクール公爵夫人にもどる。
シャトレ裁判所のパリ司法代官(プレヴォ)が公爵(?)であるとすると、代訴人は国王代訴官以外は公爵であり得ない。
……と言うことでコナクール公爵夫人の公爵は怪しい。
……であるが、小説「三銃士」の中にいる貴族というのはおおよそ、大革命以後の王政復古時代又は、デュマの時代の第二帝政時代の「何でもあり」貴族の様であるから「大目に見なければ」ならないであろう。
ちなみに、代訴人(代訴士)は裁判所において、当事者の代理人として訴訟書類を作成することを任務とする司法官である。ただ弁護士と違うのは、法廷で当事者の弁護するために弁論を行う事はないと言うことである。
さて、小説上のポルトスを時代考証的に身分を明らかにしてみよう。

ポルトスは他の銃士と違う特徴がある。
貴族としては少々妙な部分である。

1.ポルトスの半分だけの金の釣り革。
2.金持ちになりたいため、シャトレ裁判所代訴人未亡人・コナクール公爵夫人との結婚。
3.男爵位

ポルトスは貴族出身に間違いないが、平貴族(エキュイエ)であるから貴族の次、三男であると予測される。
当時近衛銃士隊などの親衛隊に入隊するのは、貴族の次、三男が多かった。又通常貴族の子弟はパリのAcademyに行くので、16歳で卒業して軍隊に入ったと思われる。
尚、ダルタニャンは田舎の貧乏貴族(伯爵)の長男で一応領主貴族。アトスは当然領主貴族。
アラミスは爵位貴族(小貴族)の3男以下で一族で司教区を持っていたか、叔父(ゴンディ神父のように)に司教がいたと予想される。
「第5巻 21 ピカルディー街道」で「リシュリュー殿は貴族で、家柄はぼくたちと同じ、ただ地位だけが上だった。………」と述べている。(従いリシュリュー枢機卿と同じように、神父になるべき人物が別にいたと想定・普通当時の習慣で長男は嫡子・次男は神父・三男は軍人)
従って、神学校の後司祭を経てパリ大学神学部に学び司教の職につくと言う具合である。
さて、ポルトスはどうであろうか。

当時の貴族の常識では……
1.威信のための消費を「ケチル」のは恥。(家門の名誉が何よりも大切)
…………そのために借金をした。
2.不名誉である。(金持ちのブルジョワと婚姻関係を結ぶ)
…………コナクール公爵夫人は法服貴族であるからブルジョワ出身と推定される。
法服貴族は当然持参金つきのブルジョワ出身の女性を妻にすると思われる。
3.爵位貴族ではない。

…と言うように一般の貴族の概念から遠い。
よって、ポルトスは騎士(シュヴァリエ・chivaler)階級であろうと思われる。
尚シュヴァリエ・chivalerは「戦士にして家臣」というところから来ている。
発祥は、10〜11世紀西フランク王国でmiles又は、milites「騎兵を示す」と呼ばれる独立の小地主層が現れた。……フランク王国の騎兵(caballaius)
騎兵になるにはお金がかかる。何しろ馬を用意しなければならない。当時「馬に乗る」という行為は「高い身分」を象徴し11世紀以降貴族(noblies・nobless)と同格になった。
但し、騎士(シュヴァリエ)の称号を持つからと言って下級というわけではない場合がある。
例えば、映画にもなった有名な訴状事件の平貴族(エキュイエ)ド・ラ・リヴィエール(元近衛騎兵隊隊長)の父親は、騎士の称号を持つクーシーの領主で、王妃の宮殿付き総監。叔父の一人は、国王の寝室付き侍従兼サン・ミッシェル騎士団員。
又、マルタ騎士団大使、ジャン・ジャック・ド・メーム騎士(シュヴァリエchivaler)は「バイイ」の称号(国王代官・公爵待遇)をもっていた。(これは例外・即ち聖職者だからである。……カソリックによって権威づけられていた。)
しかし、爵位貴族の中には騎士(シュヴァリエ)やなどの下級貴族は貴族でないと考えていた人物もいたのは事実である。

フランス騎馬警察裁判所・高等法院等に提訴された「身分違いの結婚」で……
義理の父であるロジェ・ド・ビュシー・ラビュタン伯爵(宮廷貴族で有名な・王族の血を引く名門貴族・軍人作家、ド・セヴィニェ夫人の従兄)は娘婿ド・ラ・リヴィエールを貴族ではないと社交界を通じて18通ものも誹謗中傷文を出している。
又、コリニー侯爵夫人(リヴィエール夫人)の叔母であるド・セヴィニェ夫人もド・ギトー伯爵にしたためた書簡(1682年1月23日)でド・ラ・リヴィエール氏を貴族と認めていない。
尚令嬢はコリニー侯爵(ルイーズ)夫人(コリニー侯爵ギルベール・ド・ランジャック未亡人)で結婚当時38歳、リヴィエール氏は39歳だった。
又、面白いことにド・ラ・リヴィエール氏の方がラビュタン伯爵よりも資産家だった。
…………………        …………………………
以上により、三銃士の主人公が「フロンドの乱」においてどの様な立場立ったのか理解を深めることが出来ると思うのである



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