D'Artagnan物語・三銃士T

第 5 章   ラ・ ロシェル攻防戦 落  城

ルイ13世の時代フランスの全兵力は6〜70,000人程度であったろうと思われる。
ラ・ロシェル包囲戦で、ルイ13世指揮の国王軍はこの全兵力のうち20,000人強の国軍を投入したのである。即ちこの時動員できる全ての軍を動員したことになる。
ラ・ロシェルは、イギリスのバッキンガム公爵が「必ず(援軍を連れて)救援する」という言葉を信じて市議会は戦闘を続行した。
一方イギリスでは、戦闘に多くの戦死者を出した敗北によって、バッキンガム公爵が苦境に立たされていた。(以前から強権政治の不満が高まっていたが)軍隊において半分戦死すれば全滅である。2割強程度の戦死傷者であるから大敗北である。
(1)第一次派遣
1628年5月8日イギリスは54隻の軍艦を用意しポーツマス港を出航した。この時はバッキンガム公爵は批判が多くて指揮出来なかったのである。指揮官はデンピー卿。しかし、リシュリューの作らせた巨大な堤防と要塞に恐れをなし、不可解にも簡単に撤退してしまった。
(2)第二次派遣
さすがイギリスも再度派遣を決め今度はバッキンガム公爵自身が中心になってことをすすめた。この時点でバッキンガム公爵が清教徒のフェルトン中尉によって殺害されたのは前述のとおり。
9月17日、新指揮官リンゼー卿は、150隻の軍艦を擁してラ・ロシェル沖に到着。攻撃を開始したが、兵力は5,000名しかなく失敗して撤退した。
一方、包囲のフランス側では密使やスパイを捕まえては公開処刑をして暇を紛らす始末であり、ラ・ロシェル側も脱走者を捕まえては、縛り首にしていた。
ラ・ロシェルでは徹底抗戦を貫こうとしたが食糧が尽き餓死者が後を絶たず、ついに街(市)の人口が28,000人から6,000人以下に減少した。
時に、1628年10月28日ラ・ロシェル要塞は陥落した。
11月1日国王ラ・ロシェル入城。国王は全ての町の特権(軍事力・政治組織その他)を奪った反面、住民全員を赦した。

さて、当時のフランス軍とはどんなものであったろうか。
ダルタニアンが近衛銃士隊に入る前に他の貴族の護衛士隊としていたことで判るようにこの当時は、貴族の自前の軍隊の集合体である。その上、実際「国王軍」という軍隊はあったものの支配権は国王には、無かったのである。
事実上の支配権は、フランス歩兵司令官である。将校の任命状を発行していたのは国王名でなく歩兵司令官であり、国軍に対しては国王を上回る絶対権力をもっていた。
又、将校任命状は貴族層(種種の特権のうちの一つ)の間で金銭で売買され、大佐になるためには大佐の将校任命状を買わなければならなかったのである。当然大佐になれなければ将軍に成れなかったのである。
売買される将校の任命状の適応以外である中佐、少佐、准将という階級は、ルイ14世の軍政改革(陸軍大臣・ミシェル・ル・テリエ・ルーヴォア侯爵)1661〜1667頃まで待たなければ実現していない。
一方、軍隊の質というと、槍などの武器等が統一されておらず制服も定まっていない。厳格な規律もなく給料も遅配気味であった。
将校達の間では、架空の兵士名を名簿に記載するという悪習が平然と行われていた。軍事パレードでは、日雇いの者にマスケット銃(Muskets)と装備を持たせて偽装していた。これをパス・ヴォラン(偽兵士passe-volants)という。当然給料の差額は将校のポケットに納まるということである。

その後のフランス軍はというと……
ルイ14世の時代、陸軍の軍政改革によりヨーロッパに強大な軍隊か出現した。これは直ぐに各国がまねをすることとなる。
又、フランス革命後のNapoleon戦争の時、ナイルの海戦でフランス艦隊は全滅させられる。いわゆるネルソン(Nelson)提督(少将・rear  Admiral)によるアブギール湾の戦いである。これによってフランスの海軍は貧弱と思われがちであるが、ルイ14世の時代海軍に力を入れている。
1588年以来イギリスが世界一の海軍国と言うことになっているが、第2位はフランスであった。地中海の制海権はフランスにあり軍艦建造技術は当時世界一であった。
特に、フリゲート艦(Frigate)は喫水が浅く高速でありイギリスなどの艦では太刀打ち出来なかったのである。
ちなみにナイルの海戦で破れた理由の第1は、フランス革命で優れた海軍将校(貴族)の三分の二が亡命して優れた指揮官不足であったこと。
第2は、優秀な水兵が集まらなかったこと。第3は、エジプトに上陸したNapoleonが食料、水を殆ど全部持って行ってしまい航海が出来なかったこと。その上少ない水兵が食料を求めて上陸してしまい兵力がいなかったこと。第4は、ネルソン(Nelson)提督の作戦勝ちである。
湾の狭い陸側(フランス戦艦が湾を横にしてに一列に並んでいる)に敵艦が入り込むとは考えていなかった。その上夕刻から夜間攻撃である。(夜間には攻撃しないと考えていた。)……帆船であるからある程度操艦余地が必要である。従い、陸側の狭い湾にイギリス艦が入り込むとは想定しておらず、陸側に大砲を配置していなかったり物を積み上げて大砲が打てない状態であった。
その上、陸の要塞の要塞砲からは遠すぎたというミスがあったのである。



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