D'Artagnan物語・三銃士T

第 3 章   バッキンガム公爵 その1 Chevreuse,Marie de Rohan-Montbazon

急ぎすぎたので少し話を戻してみよう。
 事件をもう少し補足する。
 1623年、イギリスのチャールズ1世(皇太子の時)がお忍び(非公式で)でバッキンガム公と共にパリを訪問している。
 この時偶然に王大后マリ・ド・メディシスが、リュクサンブール宮でバレエを上演させたのを見ることになった。この宮殿で上演されたバレエに「女神」役で王妃アンヌ・ドートリッシュが出演していたのである。
 これがバッキンガム公をして王妃アンヌ・ドートリッシュの美しさに目覚めさせる事となった。
 バッキンガム公爵とは粋で洒落者であり、王女アンリエットをイギリスに連れ帰るときには27着の服を持ってきたと言われている。その上フランスで生活したことがあり「宮廷フランス語」巧みであったのである。
 枢機卿主催の宴会の席上、真珠をちりばめた舞踏用の衣装を身につけて姿を現した。その真珠は縫いつけが甘くアンヌ・ドートリッシュに低頭したとき床にボロボロとこぼれた。宮廷人は、急いでそれを拾い集めて差し出したが「どうぞお受け取り下さい」として受け取らなかった。
 ルイ13世のケチぶりにヘキヘキしていた王妃の心を和ませた。王妃と公爵はいっしょに踊った、指は絡み合って不器用な仕草でそれをはずした。
 1625年王女アンリエットを連れて英国に戻るについて、王大后マリ・ド・メディシスがアミアンで病気になり9日間滞在することになった。ここで有名な事件がおこる。
 6月15日晩、前述の様に王妃アンヌ・ドートリッシュ一行が庭の散策をした。シュヴルーズ夫人の陰謀の甲斐あってアンヌ・ドートリッシュとバッキンガム公は二人になることが出来た。この時美貌のバッキンガム公は全く王妃にのぼせ上がっていたので猪突猛進をした。
 即ち王妃に突然抱きつき草の上に押し倒し、荒々しい仕草でスカートをまくり挙げ辱めようとした。このどう猛さに驚いたアンヌ・ドートリッシュはもがき助けを求めた。

…ギー・ブルトン「フランスの歴史を作った女たち・第3巻・第20章・国王妃に手を出したがるイギリス大使」
お付きの者達が全員駆けつけ、王妃はシュヴルーズ公爵夫人の腕の中で大泣きに泣いた。
翌日、アンヌ・ドートリッシュはバッキンガム公爵に怒りをぶつけた。シュヴルーズ夫人は、公爵を責めているのは、彼がうまくやらなかったことに原因があると理解した。
事件は即刻王大后に知らされ翌16日にアミアンを発っている。

 レス枢機卿「備忘録」によると「住居に戻ってから、男達はみんながさつで、礼儀知らずだと。そしてシュヴルーズ公爵夫人に『明日の朝、バッキンガム公爵に、自分は何ら妊娠の恐れはないのだ、と言うことの保証してくれるよう』頼みに行くように命じた。

 バッキンガム公は次の宿泊地に着く前に口実を見つけてアミアンに舞い戻り王妃アンヌ・ドートリッシュに面会して醜態を晒しているのは前述の通り。
 この間1624年4月にリシュリュー枢機卿は国務会議のメンバーとなり、8月には国務会議の長、即ち宰相となる。

 さて、ここでシュヴルーズ公爵夫人(マリ・ド・ロアン)について弁護しておこう。

   ★シュヴルーズ公爵夫人(Chevreuse,Marie de Rohan-Montbazon,Duchesse de)
  1600.12-1679.8.12

 マリは1600年に生まれ17歳の時、23歳も違う時の宰相リュィーヌと結婚(1617年)していると思われる。
 このころ40歳ぐらいが平均寿命であったろうから今で言えば老人である。
 年を取って功なり遂げた人物が家柄の良い評判の「若くて美しい才気あふれる」女性を妻にすると言うことは今も昔も変わらない。
 しかも一国を代表する宰相ともなれば選り取り見取りである。マリ・ド・ロアンとはそんな立場にあった女性なのだろうと思う。
 結婚の時期を探ってみよう。
 1617年4月コンチーニ元帥暗殺(国王名による)の後リュィーヌは宰相になり、コンチーニ夫妻の膨大な財産の一部がこのリュィーヌに相続された。
 そして1619年9月マリ・ド・ロアンの父モンバソン公の領地、クージェール城の和約(アングレーム協定)の時には結婚していたのであるから1617年マリ17歳のころであろうと思われる。
 しかも、この宰相・元帥リュィーヌは43歳で戦死(戦病死)しているためにマリは20歳で寡婦になったのである。そして膨大な財産を持つ貴婦人となったと思われる。
 ポルトスが望んだ貴婦人(コクナール公爵夫人)のモデルのようではないか。
 尚、三銃士にでてくるコンスンス・ボナシュー(Constance Bonacieux)は18歳で40過ぎのボナシュー氏と結婚している。
 宰相・元帥リュィーヌ(公爵)とは何者かと言えば、1578年生まれの南フランス出身の小貴族でシャルル・ダルベール・ド・リュィーヌと言った。
 国王ルイ13世の宮廷・飼鳥園係である。飼鳥とは狩用の鳥のことでルイはとりわけ鷹狩りを好んでいた。9年間この役目を務める内に国王の寵臣となった。
 ここでこのリュィーヌが有能な人間であるならば後のリシュリュー枢機卿(摂政マリ・ド・メディシスの愛人)の出現はあり得ない。しかし、国務会議を主催した(宰相)が政治・行政・軍事と全て素人であり軍事的には大失敗を繰り返し顰蹙かう始末であった。
  そして、マリは宰相の妻であるから当然宮廷に出ることになり宮廷貴族となり、しかも王妃アンヌ・ドートリッシュとほとんど年も違わず無二の親友となったのである。
 想像するに、このマリ・シュヴルーズ公爵夫人という人物は気まぐれで、愛嬌たっぷりな「可愛い」タイプの女性、才気あふれる才媛の女性だったのであろうと思う。
 シュヴルーズ公爵夫人は、「金髪碧眼で、彼女を好む男たちと『キャアキャア』やるほど、時代の最先端をゆく自由奔放な性格の持ち主だった。……伝えられるところに依ると、寝床技の素質は充分かつ創造力は抜群だったので、リシュリューなどは自分自身、この評判を実際に試そうと決心したほどだった。」
ギー・ブルトン「フランスの歴史を作った女たち・第3巻・第21章・王妃アンヌにあうためにバッキンガム新教徒に手を貸す」
 小説でも第3巻 23 スカロン神父 で息子のラウルに接吻を許す場面にこう書かれている。
「この気まぐれかが夫人を愛嬌たっぷりな女性にし、たびたび危ない橋を渡らせたものだ」


 宮廷は気の利いた言葉、会話を交わす社交の場である。若い絶世の美女(宮廷一と言われた)である貴婦人(マリ)が宮廷内外で愛人を作るということは、ごく自然であろう。(宗教的には許されなかったが)
 又犯した行為も、全て王妃アンヌ・ドートリッシュを思ってのお嬢様の「浅知恵」「短絡的な思考」であったように思える。
 (初期はそうであるが、だんだんと反骨精神が旺盛となり「しかえし」のようなことをする恐ろしい女性である。しかも目的のためには手段を選ばすであり、困ったことに下半身も美女だったようなのである。)

 後のルイ14世、15世なら多分国王の愛人になったであろうと思われるが、ルイ13世はどちらかというとプラトニックなホモ(又はインポ)でありそのため国王の愛人にならなかった。
 愛妾に、母后の侍女のマリー・ド・オトフォールという金髪碧眼の女性がいた。ある晩のこと、焦らされたマドマーゼル・オトフォールは王に飛びつき、寝台に誘った。王はそれを振りほどき、愛妾をお払い箱にした。

 三銃士 「第1巻 15法官と武人」にシュヴルーズ公爵夫人について書かれている。
「枢機官は、こと陰謀に関しては、男よりもはるかに女を警戒していた。こうした疑いのもっとも大きな原因としては、アンヌ・ドートリッシュとシュヴルーズ夫人の友情を挙げねばなるまい。これらの二人の婦人は、スベインとの戦争や、イギリスとの紛争や、財政の逼迫以上に、国王の悩みの種だったのである。国王からみると、シュヴルーズ夫人は王妃の政治的な策動に力添えしているばかりでなく、それよりも遙かに心配なのは、色恋の道にかけても手引きしているに違いないことであった。」

 三銃士・第1巻ではシュヴルーズ公爵夫人は、トゥールに追放(幽閉)されていることになっているためにほとんど登場しない。しかし、実際は前述の様に亡命するのは1626年三銃士のダイヤ事件舞台の後・ラ・ロシェルの包囲戦の直前時点である。
 アラミスがダルタニアンと決闘するきっかけになったのは、シュヴルーズ夫人の侍女(小説では従姉妹)ボワトラシー夫人(カミーユ・ド・ボワトラシー Camille de Bois-Tracy)のハンカチを落としたことによる。
 このボワトラシー家でシュヴルーズ公爵夫人と愛人であるアラミスは密会してたのであろう。何故かこの辺の展開は消えてしまった。
 このハンカチ・隅の方に王冠と紋章それにC・Bのイニシャルの入った・は何やらの合図として使われた。
 シュヴルーズ公爵夫人は、
 第3巻 「22 マリー・ミション、旅先での一夜」で初めて登場する。
 1633年10月11日(手紙記載) 逃亡中(トゥールを出てスペインへ)のシュヴルーズ公爵夫人はリムーザンのローシュ・ラベイユの司祭館に泊まることにする。
 そこで、夫人のイタズラ心からアトスを司祭と間違えて一夜の関係を持った。
 アトスはその正体を侍女のボワトラシー夫人(小説ではミレディーの元侍女・ケティ)を見て察し一年後、生まれたラウル(Raoul)が司教館に届けられた。……と偶然知ったアトスがラウル(生後3か月)を引き取った。

 本文では16年後成長したラウルの就職の世話を頼みに来たとき、その由来を述懐するというところである。
 又、訪れた邸宅を「ジャコバン会の修道院の真ん前にある広壮な邸のまえで足を止めた、この建物の上にはリュイーヌ家の紋章がついていた。」と微妙な歴史の事実が書かれている。
 小説によると44〜45歳(38-9歳にしか見えなかった)という設定なのだか辻褄を合わせるために大部引き延ばしてあるので史実と合わなくなっている。
 実際の逃亡は1626年シュヴルーズ公爵夫人25歳のときである。25歳ならシュヴルーズ公爵夫人もさもありなんと言うところなのであるが、本の 1633年とすると32歳である。(史実ではスペインへの亡命は1637年)
 
 尚、1626年シュヴルーズ公爵夫人の亡命も侍女と二人、男に変装して騎馬で逃走ということはあり得なかったであろう。(侍女が平民出身のケティだとすると馬に乗れるはずがないし、普通貴族の移動には四輪馬車を使ったはずだからである。もっとも1637年の逃亡の時には男に変装して逃亡したという。)
 又、シュヴルーズ夫人はそれなりの親衛隊を持つ身であるからである。
 
 ラ・ロシェル包囲戦
 ラ・ロシェルは16世紀から続いた宗教戦争である。ここはプロテスタントの拠点であり、なんども攻囲戦が行われている。
 イギリスとの海峡をはさんだ港であり、イギリス軍に常に支援されていたのである。
 ラ・ロシェルは長年続いた戦争のため、大砲を備えた要塞となり補給は港を利用して行っていたために難攻不落であった。(2003_8_29-9.5-9.23修正)



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