[ 第3章 は? ]
虚ろだった。

気付けば手が止まって思考に沈んでる自分がいた。
否。思考などしていなかった。
わけがわからず呆けていたと云った方が、きっと正しい。
ともかく、上司に告げた。彼女に癌が見つかりました。

「は?」

経緯を説明してる間黙って聞いていた上司は、銀座にある
国立がんセンターに行ってみろと薦めてくれた。
早速ホームページで調べる。
今日は金曜。土日でも診療をしてくれるだろうか。

やっていなかった。早くても月曜日。
こんな小さなことでも心が曇る。
ともかく月曜は休むことにし、その旨を了承してもらった。

しばらくして俺が所属するサブグループのリーダーが
打ち合わせを終え自席に戻ってきたので、上司と同じように
話を切り出した。

「は?」

癌だ、と云うと、人は同じ反応をするらしい。
勿論その時点でそんな観察はできるはずも無かったが。

リーダーからも休暇の承諾を取付け、会社を後にする。

息をせき切らして着いた最寄駅から電車で名古屋へ。

名古屋で最も早く東京駅に着く新幹線に乗る。

東京駅で山手線に乗り換えて上野。

常磐線で1時間後、目的地の駅に到着。

タクシーに乗る。

彼女のアパートの近くで降ろしてもらう。

アパートの階段を昇る。


普段は楽しいだけのこの道のりを陰鬱な心持ちで辿り、
本来は心躍らせながら押すはずのチャイムを、脱力した
指先で、ゆっくりと鳴らす。

ドアを開けてくれた彼女は、意外にも少しだけ微笑んでいた。
少し気分が軽くなった。

ともあれそばに来ることができて良かった。
大きな不安の中の、かすかな安堵感を意識して、
人生で一番衝撃的な一日は更けていった。




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