国鉄(インチキ)列車名鑑-1(その1)


置換当日の下り1レ「つばめ号」編成側面図はこちら(117KB)
置換当日の下り3レ「はと号」編成側面図はこちら(115KB)

オイロ22(1等・2等座席合造車)1~8



1等定員4名、2等定員12名と言う豪華車両。
1等室に使用される座席は、設計時に国鉄担当者がアメリカのタコマにあるボーイング社を訪れ、国際線航空機のファーストクラス用座席について研究した結果採用された、超豪華バケットシートである。

当時の列車座席の常識を覆したこれらのシートは内装のお披露目会場に現れた人々に驚嘆を与えずには居られなかった。床屋の椅子に似ていると言う声もあり、招待者のひとり内田百閘は「この座席に座っていると後ろに親方が剃刀を持ってきて『お髭はアタりますか』とか聞きやしまいね」と言ったそうである。

完全区分室は編成中オイロ22に設置された2室のみで、庶民には高根の花どころか入手すら出来ない有様であった。
「つばめ」「はと」電車化後は1、2を保留車として残置。他は廃車された。



オイテ30(1等座席・展望車)1~2



専ら「つばめ」に用いられる目的で製造された「ドームカー型展望車」。
アメリカで良く見られる形態である。それもその筈で設計は国鉄設計陣ながら実際の制作は米国バッド社である。

ステンレス地の車体に青帯2本でスマートに決めた姿は、当然ながら人々の注目を浴びた。しかし一部のファンは「機関車から色を揃えているのに最後の一両が色違いではブチコワシである」と言う見方もあったようである(出典:鉄道ファンデーション1959・4月号)。

2階展望室下の通路は天地が大変狭く、設計はさぞ苦労した事であろう。階下部には給仕室(英語での観光案内や電報の送受等、中々多忙だったそうである)、1等客への軽食飲物のサービスルーム、便、洗面所、機器室がひしめいている。
最後部の展望室は建前上3等車の乗客でも利用出来る事になっていたが、実質1等客専用サロンとなっていた。

「つばめ」「はと」電車化後、保留車として1が残置したが、その1も昭和39年に廃車された。惜しむ声は未だに多い。



オイテ63(1等座席・展望車)1~3



「つばめ」「はと」の目玉として製造されたオイテ30と平行して「平屋建」の1等展望車も製造された。
63型と60系を名乗っているが、この展望車の台枠に廃車になったオハ60のそれを再利用している所為である。系列別形式一覧では60系となっているのが面白い。
密閉式展望室が目新しいが、終戦後間も無く、オハ35を改造した特別職用車「JNR1」(後マイフ97)にその例がある。勿論一般乗客向けとしては国産初である。

主に「はと」に使用されていたが、運用の関係で「つばめ」に用いられる時もあった。運用開始後暫くしての話であるが、ある著名な歌舞伎俳優が来阪する際、このオイテ30の2階席に乗る事を楽しみにしていた所、やって来たのがオイテ63であったのに失望し、結局大阪入りを一日後にずらしたと言う。

その一方で車体色の統一を喜ぶ向きは沿線の鉄道ファンに多く、東海道線の有名撮影地、根府川鉄橋や山科の大カーブ等では「しめたっ、今日はロクサンだ」「畜生!今日はサントーかぁ」等と言った歓声・嘆声が多々聞かれた。

「つばめ」「はと」の電車化後、1は電気機関士教習用車に改装され(オヤ2711)、昭和54年頃まで秋田で使用されていた。その後準鉄道記念物に指定され、現在は復元されて大井工場に保管されている。



22系「つばめ」「はと」。
その栄光の期間は僅かに1年3ヵ月。東海道と言う表舞台を滑ってからは急速に転落の路を歩んだ悲運の列車。
悲運と言ってしまえばそれまでだが、22系が後の車両設計、特にアコモデーション面に関して多くの影響や教訓を与えた事も、また事実なのである。また車内サービスの電化はそのまま当時の日本の家電製品の普及と向上を表すバロメーターとなっていたのであり、その意味においても或る一時代を表象する貴重な列車なのであると思わざるを得ない。



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