国鉄(インチキ)列車名鑑-1(その1)


置換当日の下り1レ「つばめ号」編成側面図はこちら(117KB)
置換当日の下り3レ「はと号」編成側面図はこちら(115KB)


昭和33年に「走るホテル」の呼び名も誇らしく、九州寝台特急に20系寝台列車がデビューする。それから遅れる事1年、20系客車と同時に設計を開始した昼行特急用客車、22系が登場し、国鉄の看板列車「つばめ」「はと」に充当された。

この系列については余りの豪華さと、その後の急速な没落で多くのファンから「或る列車」に比肩する悲劇の列車として認知されている。同輩の20系が後に寝台特急全盛時代を築き上げ、長い歴史を走り抜けた栄光の列車として語られている所と好対照を示していると言うのである。

しかしそれは果たして正当な評価であるだろうか?



昭和34年3月全国ダイヤ改正時から、1・2レ「つばめ」、3・4レ「はと」は22系化された。
登場以前からその磨き上げられた姿は広く報道されており、市民に大きな衝撃を与えたのである。

終戦から14年、人々はその優雅な姿に、ようやく平和の裏に安定した発展を見せ始めた我が国の姿を重ね合わせ、結果20系と22系は一躍時代の寵児となったのである。



当時の社会の底を暖かく流れていた上昇志向と言う物に誠に叶った列車であった事は、現在でもあらゆる人々が至る所で著している。

新社会人は初月給の袋に一枚だけ入っている5千円札を見詰め、「あぁ、これ一枚じゃ2等にしか乗れないのだな」と向上心を刺激され、また同世代の沿線の洟垂れ共は、専用色のEF58に牽引された「つばめ」「はと」の通過を見ると、それまで忙殺されていた「月光仮面ごっこ」を暫し中断し、憧憬の眼差しで見送るのが常であった。そして通過後には決まって「銀色の展望車と青い展望車のどっちがよりカッチョ良いか」について延々と議論を闘わせたものであった。



前述した通り牽引機は専用色のEF58(41、42、63、64,65)が充当せられたが、運用の関係で日によってはブルートレイン塗装のカマや、所謂「青大将色」が就く事もあった。沿線でカメラの放列を敷く者達は、牽機が「セーラー服」と称する専用色である事をひたすら神仏に祈ったそうである(出典:日本写真報、1961年10月号。対談、鉄道写真とわたし、庄田尚敬)。

牽引機については終始EF58であったが、当時計画されていたEF60による牽引を望む声も少なからずあった。現在ならば差し当たって「カシオペアをDF200に牽かせたい」と言う夢と大差ないに違いない。1960年に登場したEF60は実際には貨物機であって、「つばめ」牽機の栄誉に俗する事は遂に無かったのである。

後に特急牽引用のEF60形式500番台が現れたが、その時には既に22系客車は四分五裂。「つばめをロクトーに牽かせたい」と言うファンの夢は、夢で終わってしまった(出典:レイルガマン、1997年12月号。特集・スター達の桧舞台、東海道本線)。



周知の通り「つばめ」「はと」は22系化されてから僅か1年3ヵ月後には「こだま」型26系(後の151系)に置換えられ為、展望車を外して「はつかり」に転用。
しかしその活躍も間も無くキハ81系に取って変わられ、均整の取れた編成美を見る事はその後二度と無かった。

車両は同時設計の所為もあり、20系において特徴的な集中電源方式、固定窓、モノコック軽量ボディ等、構造面から車内アコモデーションに至るまでその設計思想が生かされている。




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