国鉄(インチキ)列車名鑑-3(その3)



終戦後「富山」は、所謂白帯車(進駐軍専用車)を連結した。進駐軍専用列車ではないが、白帯車に続く三等車も、やや状態の良い車両を都合したようで、長距離客には喜ばれたようである。図は昭和23年頃のもので、当時まだ一線級であったオロ31やオロ36が連結されている。


普通車は相変わらず木造22000系が主だが、途中で増結されたものか、僅かながらオハ60の姿が見える。


「富山」が直江津から北陸線に入ると、牽引機はC51にバトンタッチする。運用の都合でC57やC55になる場合もあったらしいが、この時代はC51もまだ主力機の座を譲ってはいない。


昭和23年当時の時刻表を見ると、戦中と変らない16時間半であった。当時の劣悪な設備や車両でよくぞこの時間を維持したものだと思う。



昭和28年、講和条約が成立して占領を解かれると、「富山」から白帯車は姿を消し、替わって青帯の2等車が連結される。この時初めて「犀川」と言う列車名が付いた。
中央線東京口の牽引は、それまでのED16から大型のEF52に交替。


甲府以遠は相変わらずD50、D51の天下であった。小海線で使用する有火回送のC56が最後尾にぶら下がっているのがご愛敬である。

下図は長野で2等寝台と指定2等を解放して身軽になった後の姿。


北陸線筋の牽引機はほぼC57に統一されている。しかしながらイラストではパイプ煙突、キャブ振替のC51が先頭に立っている。

2等車にオロ35やオロ40、3等車は木造車が姿を消し、当初はオハ35系、そして次第にオハ46がその割合を増やしている。
当初は座席車のみであったが、昭和30年には図に見るように2等寝台車マロネ38が連結され、列車としての格を大いに上げた。



次の図は「富山号」と改称された後の昭和37年頃のものである。
EF52が東海道用のマヌ34を従えているが、これは容量の関係でそうした指令があったからかも知れない。


甲府から先はDF50の独壇場であった。大型DLとしてはやや出力不足の同機は、優等列車の牽引には必ず重連で当ったと言われている。


長野ではDFに変わって重装備のD51が付き、


直江津からはお馴染みのC57が単機で牽引した。


客車は実にバラエティに富み、2等寝台、3等寝台、2等指定座席、3等座席と賑やかである。長野区に配置されていたナロハネ10が編成に豪華さを添えているようだ。寝台車は上下共長野で連結、解放する。

JSB全国時刻表1963年7月号より



この時代の「富山」のダイヤは、時間短縮との闘いだったと読み取れる。
昭和28年、「富山」の前身「犀川」は新宿を22時20分に発車、富山に翌13時に到着していた。ほぼ15時間である。
昭和35年5月改正で中央、篠ノ井にDF50が入線した結果、新宿22時55分発、富山12時45分着。40年の改正で上諏訪電化が成ると、新宿23時15分発、富山12時30分着。
このように小刻みに時間を短縮し、劇的な時間短縮とはならなかったが、その背景には「富山」の通る路線の殆どは単線であり、機関車交換や客車の切り離し等の手間多く、また夜行列車であるため夜間の減速、途中駅での長時間停車等の時間調整措置が必要であった事などが挙げられる。

また余談であるが昭和40年の改正では、「富山」の兄弟列車が誕生している。「冠着」がそれである。夜行の「富山」に対してキハ55系を連ねた「冠着」は、新宿を朝9時30分に出発し、富山に21時50分着と言うダイヤで運転された。
時間帯が良くないせいか余り人気が出ず、早くも昭和43年10月改正で、新宿-長野の「かむりき」(後、新宿-松本「常念」)と、長野-直江津-新潟・糸魚川の「青海」に分割され、発展解消した。


JSB全国時刻表1967年7月号より




次は昭和48年頃の「富山」である。
上諏訪電化、松本電化を経て、牽引機がEF13、EF52からEF64に。


松本からDD51の重連で姨捨を、そして関山をEF62で越え、


交流電化成った北陸線に入るとEF70がその任に当った。


客車は殆どが青色となったが、編成の内容は昭和30年代の車両をそのままアップグレードしただけである。僅かにナロハネがオロネ+オハネ×2に変った位であった。
因みにこれらの客車はナロハネを連結していた昭和36年までは長ナノの受け持ちであった。やがて南シナの車両を使用するようになるが、品川客車区で組成した列車はD51、後にはEF15に牽かれて山手貨物線を走り、新宿に据付けられるのである。新宿発の夜行急行が増えるに従って、駅構内での機関車付け替え作業を省略するため、牽引機がEF64化した後は機関車の方で品川に「お出迎え」をするようになったのである。
到達時間は昭和40年の改正から変化はなく、新宿23時15分は不動のものとなった。

この「富山」にとって最も華やかな時代の停車駅と時刻を転記しておこう。

新 宿発23:15富 山発18:15
八王子発00:05魚 津発19:03
大 月発01:03糸魚川発19:41
甲 府発02:20直江津発20:19
上諏訪発04:01高 田発20:37
下諏訪発04:10新 井発20:52
岡 谷発04:21田 口発21:20
辰 野発04:32黒 姫発21:37
塩 尻発04:53長 野着22:22/発23:05
松 本発05:18篠ノ井発23:16
麻 績発06:04麻 績発00:09
篠ノ井発07:00松 本発00:45
長 野着07:10/発07:55塩 尻発00:57
豊 野発08:09(下りのみ停車)辰 野発01:15
黒 姫発08:42岡 谷発01:25
田 口発08:55下諏訪発01:34
新 井発09:20上諏訪発01:45
高 田発09:37甲 府発03:14
直江津発09:54大 月発04:17
糸魚川発10:33八王子発05:06
魚 津発11:18新 宿着05:58
富 山着11:43



昭和49年3月、松本駅にて。下り急行「富山」。最後尾のスハフをホームの照明が眩く照らし出す。終点まであと6時間半(岩美銀山氏所蔵)。




最後に私の知る昭和53年時点での「富山」をご覧頂く。
昭和53年2月改正で普通座席車はそれまでの旧型から12系に変化し、A寝台、グリーン車の連結は廃止された。
折りしも「ブルトレブーム」の走りの時期で、12系座席車であるにも拘わらず「新宿発のブルートレイン」として、TVやムック等で紹介された。当時小学生だった私は、12系は明らかにブルトレではないと憤った事を覚えている。
冒頭に記した昭和55年の最終時には、荷物車は連結されていなかった上、座席車は6両だったように記憶している。



-EF64の甲高い汽笛、長笛一声。盛大なブロワー。
小雨が降り出す。
窓からちらくらと見える無数の掌。
煙った新宿の明るい夜空に消えて行く汽笛は大久保のガードあたりか。

これで総てが終わった、かに思われた。



そうでは無かった。最終「富山」が去って一年も経たない昭和56年夏、臨時ではあったが「新宿発のブルートレイン」は奇跡の復活を果たすのである。

運転区間は新宿-松本とかなり短縮され、名称も「アルプス13・14号」と変ったが、編成は図に見るように豪華であった。それまで10系寝台車に12系座席車で構成された編成は、14系寝台+14系座席にアップグレードされた。



昭和56年8月、新宿駅汽車ホームにて。ホーム支柱に下げられた灰皿すら懐かしさを覚える。

その年高校に入学した私は、夏休みに遂に実乗を果たしている。そして意外の念に打たれた。帰省ラッシュを外したとは言え、8月だと言うのに座席も寝台もガラガラであったのだ。あまつさえ最後尾のスハフに至っては乗客が乗っていない。
JSB時刻表1983年11月号より

思えばその頃と言えば中央自動車道が全通し、新宿から長野県内の各都市への直行バスが走り始めた時期である。また自家用車の急激な普及で中信越のリゾート地へ行くのに列車を使う人がいなくなった所為もあるだろう。長く憧れの対象であった筈の「富山」のスジ、座りにくい14系の簡易リクライニング席に身をもたせ、手にした「信州ワイド周遊券」を見詰めた。


昭和57年2月、中央線塩尻付近にて。夜明けが早くなって来たせいもあるのだろうが、前夜からの大雪で視界は意外なほど明るかった。そんな寒そうな景色の中を「アルプス」を名乗る「富山」が掛け抜けて行った。




そして昭和59年3月19日。
「富山」は二度目の終焉を迎えた。
再びのお別れをしに新宿駅の汽車ホームに出向いた。そこにはかつての熱気も、山男の合唱も、花束の贈呈も無く、色褪せ、ズタズタに減車された「ブルートレイン」が停車しているだけであった。


やがて定刻。
余りにも寒かった冬の名残を残す冷たい夜空に汽笛を響かせ、「富山」は何事も無かったように発車して行った。


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