国鉄(インチキ)列車名鑑-3(その1)
急行富山号のこと
昭和55年秋。
予備校の授業が引けるや、新宿駅へ急いだ。曇天の寒い日で、予報では夜半から雨になるという。
急行「富山」最終日。乗る事は叶わなくとも、せめては見送りたいと願わずにはいられなかった。
駅に着くとアルプス広場は既にガランとしていて、改札は始まっている事を悟った。すぐさま汽車ホームに上がると、そこは異様な熱気が溢れかえった巷と化していた。
列車はホームに据付けられており、シーズン中でもないのに車内は満員であった。ホーム上は少数のマスコミ関係者の他に鉄道マニアと呼ばれる人々(私も含めてだ)がちらほら目に付いたが、それらを圧倒する大多数の人々、背広姿、ヤッケ姿、老人、中老、壮年…ホームのあちこちでグループになって、笑ったり泣いたり歌ったりしている男達。
彼らは山岳会の人々である。過去何十年、多くの山屋がこの列車に乗り込んで、北ア、妙高、黒部へそして立山へ、眦を決して向かった事であろう。
やがて発車時刻。背広姿の初老が音頭を取り、ホームにいた恐らく数百人の山男達は、銘々の想いを込めて「蛍の光」を歌い始めた。国電ホームにいた、多分鉄道に何の興味も持たないであろう酔った勤め人が、訳も分からずにそれに唱和する。
機関士に花束贈呈、発車ベル。
二輌繋がった寝台車も、その後に続く12系座席車も、窓を開け放して乗客は懸命に手を振る。
ホームの見送り人も手を振り返す。
EF64の甲高い汽笛、長笛一声。盛大なブロワー。
小雨が降り出す。
窓からちらくらと見える無数の掌。
煙った新宿の明るい夜空に消えて行く汽笛は大久保のガードあたりか。
東京から中部山岳地帯を経由して名古屋まで結ぶ中央本線の役割は、大別して次の4つが想定されていた。
1)東京と中京を結ぶ
2)東京と甲信を結ぶ
3)中京と信越を結ぶ
4)東京から北陸方面への輸送バイパス
これらの内、4)については、天険・碓氷峠を擁する信越本線の輸送力が極めて限られたものであったのに対し、同じ山岳路線でありながら特殊性のより少ない中央本線・篠ノ井線、信越本線(東京-松本-長野-直江津-北陸方面)を補助輸送ルートに充てるものであった。尤も、後に信越本線の改良、更に上越新幹線と北越鉄道の開業によって時間的、距離的に有利なそれらにシフトされて行った結果、現状では中央本線にそのような使命があったとは思いもよらない。
ここで取り上げる急行「富山」は、上記4)の需要を満たす為に、新宿-富山間を結んでいた夜行急行である。尚列車名の「富山」は昭和31年10月の改正時に付けられた名称であり、それ以前は急行「犀川」と称した。その後昭和43年10月改正で「とやま」を名乗ったが、本稿では全盛時代の「富山」の名を使用する事にする。
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