国鉄(インチキ)列車名鑑-3(その2)
中央本線が全線開通した明治39年には、早くも「富山」の前身である直通列車が、飯田町-直江津間を走り出した。マッチ箱を連ねた編成で、途中塩尻では名古屋行きの車両を切り離し、更に長岡行きの車両を併結しながら、ほぼ一日を掛けて走っていた。牽引機は
飯田町-八王子:A8(後の600)飯田町庫
八王子-長野:B6(後の2120)八王子庫、甲府庫、上諏訪庫、長野庫
長野-直江津:E6(後の7950)長野庫
が牽引した。
蒸気機関車時代の長距離列車は、まるで駅馬車が途中途中の町で馬を換えながら走るように、主要駅毎に機関車を交換しながら走るのが常であった。特に機関車が小さく、タンク機が主力であった明治時代にはこの傾向が強く、速度が出ない上に機関車交換の為の途中停車に長時間を要するので、必然的に到達時分は長くなったのである。
大正2年、北陸本線が全線開通し、運転区間は新宿から富山に延伸した。
大正4年には、この列車は随分と便利になったようである。同年10月改正でそれまで直通「普通列車」であった「富山」は、正式に急行列車としてスタートした。この時期、国産の新鋭9600が大挙して甲府、上諏訪、長野に入って2120と交替し、客車も明治以来のマッチ箱から、徐々に中型標準客車ホハ12000系に替わった。
牽引機は
新宿-長野:9600
下図は甲府から先、子供のような2120が力士のような9600の前補機を努めているのが面白い。
長野-高田間:9800(マレー)
高田以遠:8620
が担当する。そのため到達時分もこれまでの21時間から一挙に17時間へと4時間も短縮し(新宿-直江津間比較)、同時期信越本線経由の上野発金沢行き急行よりも富山駅基準で30分早着であった。
大正14年頃から客車は次第に大型標準客車(ナハ22000系)が入るようになり、これまで勾配の関係で見送られて来た食堂車(ナシ20350)や2等寝台車(ナロネ20580)が編成に加えられて、益々看板列車の威容を整えたのである。
昭和に入ると、難所笹子峠が電化され、新宿-甲府間をED16が牽引するようになった。
昭和6年の時点では甲府以遠の中央東線筋はほぼ9600の天下であったが、この時期木曽福島庫には大型の9900(後のD50)が既に入っていた。
運用の関係で「富山」の塩尻-長野間では9600の前補機に附く事もあり、ハイパワーぶりを見せていたと言う(白井繁信:日本蒸気機関車大全より)。北陸線に至れば、牽引機は俊足C51が受け持つ。
昭和16年現在の機関車配置表を見ると、この時期には中部山岳地帯の各幹線にはD50に混じって新鋭機D51が大量に入線して来ており、勾配区間での輸送力増強に威力を発揮した事であろう。
戦時中の昭和17年には食堂車、2等寝台車の連結が中止され、2等車格下げの3等車がかなり混じるようになって来た。到達時分こそ16時間半と大正初期より若干早くはなったが、使用機材が関脇ランクの9600から大関ランクのD50、D51に交替してこの時間である。軍事輸送が優先される為、貨物列車待ち合わせで途中駅で長時間停車するダイヤが組まれていたのである。
余談であるが、旧制松本高校に学んだ作家のドクトルマンタこと杜喜多雄氏は著書の「ドクトルマンタ青春の記」の中で始めて松本に汽車で向かった時「富山」に乗車しているのだが、その時の事をこう記している。
『(前期略)甲府が空襲を受けていると言うので僕の乗った列車は薄闇の中でじっとうずくまったままだった。その内に西の空が赤くなり始め、誰か年取った男が「あぁ燃えてる燃えてる」と悔しげに叫んでいた。…やがて列車の前の方の信号が青に変わると、いよいよ僕の列車が動き出すと思ったら大きな間違いで、隣の線路に停まっていた俵を積んだ貨物列車が先に動き出した。満員の車室内を車掌がやって来たので松本に着く時間を聞いたのだが、「全く予想が付かない」と一蹴されてしまった。考えてみれば当然の話で…(後略)』
杜さんはこの後試験に合格し、無事松本高校に進学している。
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