夢のスケベニンゲン電軌-2-
カラシ色をしたフランクフルトみたいなオランダ国鉄の電車から彼はホームに降り立った。
子供は彼一人で、回りは全部髭の男ばかりだった。皆一様に目尻が下がり、頬と鼻は赤かった。何故か3組の担任の「アンギラス」こと阿木先生もいた。そして例外なく幸せそうな顔をしているのが良く判った。阿木先生も幸せそうだった。と言う事は彼自身もハッピーな表情をしていたに違いない。
だってここは「スケベニンゲン」なんだもの。ここでは唯一つの価値観、「スケベ」の前で全て平等なんだもの。
幸福な一団に付いて幸福な彼も駅の出口へ向かった。
駅前はいきなり真っ暗で、狭い通りに面した両側は店だった。全部の店から油臭い煙が漂い出て来ており、店の前の縁台では青服の労働者が厚化粧の中年女にしなだれ掛かって「何かけしからん事」をしていた。「けしからん」と彼が思ったのは間違いである事にすぐに気が付いた。
なぜならここは「スケベニンゲン」だから。ここには名だたるスケベしかいないのだから、ボクもスケベでいて良い場所なのだ、そう納得した。
上を見ると真っ暗な壁の2階、3階、4階と無数の黄色い灯が点った窓が無秩序に並んでおり、その中では「想像を絶するスケベ」が行われているのだと思った。
暫し恍惚としていたがやがて考え直した。ボクはこんな所で満足しちゃいけない。ここはまだ入口じゃないか。
(そうだよ猪下君、君はこんな所で立ち止まっちゃいけないよ、もっと上を狙えるんだから)。
どこかから響いたその声が英語塾の横田先生の声だったか学校の関先生の声だったか良く判らないまま、彼は「スケベの殿堂」、スケベニンゲン海岸の保養地へ行く「チンチン電車」乗り場へ向かった。
道が判らなくても一向に困らなかった。彼の周囲の髭達は笑ったり肩を叩き合ったりして一つの方角へ行進しているからだ。
あぁ、素晴らしい。世界中のスケベが大同団結して今やスケベの黄金郷へと行進しつつある。皆スケベである点で平等なのだ。あぁ、何と素晴らしい。
時折彼らの間から楽しそうな歌声が洩れ聞こえて来る。
ベッチンやタカブー達と一緒に良く歌っていた「大きなのっぽの古チンコ、おじいさんのチンコ」と同じような歌がきっと世界中にあって、彼らはそれを歌いながらゲラゲラ笑っているのだろう。
隣のイタリア人が腹を抱えて笑いながら彼の肩をつついて向こうを指差す。指の先には飛び箱が置いてあって、その上でカトチャンのハゲヅラを被った髭外人が、タブーの口三味線に合わせて「チョットダケヨ」をやっている。彼は大声で笑い出した。
ここでは皆がスケベ。ここでは皆が友達。
ここはスケベニンゲンだから口うるさいコジミ(著者註:学級委員の小島明美)もいないしセキババ(著者註:担任の関秀子教諭。無論面と向かって渾名で呼ぶ程、彼は荒んでいない)など影も形もない。ベッチンやタカブーも一緒に来れば良かったのに。
チンチン電車乗り場は薄暗い横丁のゴミ溜のような片隅に尤もらしくあった。
電柱から垂れた電線が始終スパークしている事さえ何かスケベな匂いがした。ピンク色に塗られた電車に男達が後から後から乗り込む。
一杯になると髭の(当然だ)運転手が後ろを振り向いて何かを確認する。異常に垂れた目尻がスケベだ。
車掌は髭だけでは飽き足らず山高帽を被っている。アンパンみたいな顔立ちで頬は赤くはち切れそうだ。やっぱりスケベだ。
「ちんちん」。ベルが妙に低い音で二回鳴ると電車が走り出す。「油横丁」の暗がりを躍り出ると急に辺りは眩しいほどの晴天の海岸に変った。
白、と言うより薄ピンク色の砂浜の向こうに江ノ島が浮かんでいる。海は猥褻な色をしていた。彼は息詰まる程の感激を覚えた。スケベニンゲンだ!
彼は乗合の髭外人と友達になりたかった。自分もスケベだし彼らもスケベだから、ベッチン達のような友人になってくれると嬉しいと思った。スケベはスケベ同士手を取り合って進めば世に怖い者無し。
試みに右隣に座っているカウボーイハットを被った髭のスケベに「マッチ売りの少女」と耳打ちして見た。彼は大声で笑い出し片手を振って「マッチ売りの少女、ヤラシイ、ヤラシイ」と絶叫し続け、彼に握手を求めて来た。
気を良くした彼は左隣のシルクハットを被って白手袋をした髭のスケベに、3年生の頃にノートの片隅に画いた「妖怪百オッパイ」を見せた。すると彼も止めようがない程笑い出し、手にした何だかヤラしいステッキで彼の頭をゴツゴツと叩いてまた爆笑した。
気が付くと電車の右側には、いかがわしい紫やピンクのホテルやブティックが建ち並んでいた。彼はカウボーイハットの髭スケベに話し掛けた。
「ブティックだよ、おじさん。スケベだよ」
「うんうん、ブティック。ヤラシイ」
「中でどんなスケベな事をしてるんだろう」
「それはね」と目尻を一層下げたカウボーイハットの髭スケベは何やら耳打ちするが、彼には意味が通じなかった。
「スケベニンゲン海岸中央」と言う停留所に電車が停まったので周囲を見回すと、そこには何十もの「秘宝館」が立ち並んだ一郭だった。彼はシルクハットの髭スケベに話し掛けた。
「秘宝館だ。おじさん入った事ある?」
「勿論ある。この中にはね、あぁ、耳を貸し給え」
シルクハットの髭スケベは何やら耳打ちするが、彼には意味が通じなかった。
「イノチャン」「おい、イノチャン。こっちだよ」
聞いたような声が聞こえた。
「ベッチン、タカブー。お前達来てたの。どこにいるんだよ」
「こっちだよ。判らないか」
電車の中は混んでいて、二人の姿は見つからなかった。
「良かった。お前達も来たら面白いと思ってた所なんだよ。どこにいるんだよ」
「ここだよ。見えないのか」
「イノチャンは昔からそうだったもんな。いつも何でも一番にやっちゃうんだ
もんな」
「俺達置いてかれてばかりだったよな」
「そんな事無いよ、俺達友達だろ」
「でもまた先に行くんだよな」
「先になんて行かないよ。一緒にまた騒ごうよ」
「じゃぁな、俺塾だから」
「俺も」
「おおい、ベッチン、タカブー・・・」
電車はまた動き出した。
電車がくねった海岸沿いに走っていると、車内から一斉に歓声が上がった。口笛を吹いている者もある。誰かが海岸を指差した。そこでは数十人の女達が裸でバレーボールをしていた。
しかし彼にはもうさっきまでの高揚感は出せなかった。ベッチンやタカブーが彼と袂を分かってしまったからだ。それまでにない喪失感を味わっている彼にとって、浜辺で展開される「スケベ」の祭典に対して、もう何らの興味も湧いては来なかった。
それにもう一つ。これまで彼が感じていた「スケベ」に無い要素が浜辺の光景に混じっていた。
「コジミ?」
女達の中に一人だけ知っている顔があった。何故あの口うるさいコジミがここにいるのかその理由はさておき、それまで友人だと思っていた電車の中の髭スケベ外人達が急に敵に思えて来た。
「おい、よせよ、見るな。見るな。コジミを見ちゃだめだ。おい、そこの髭! 見るな。お願いだからコジミを見るな。このスケベ、コジミを見るんじゃない、見るな、コジミを見るなってばぁ!」
彼の言によれば、夢とは異なり矢部晴喜、高田武とは中学時代を通じて親友であったが、高校進学後は殆ど行き来が無いと言う。
そして小島明美とは小学校卒業後一度も口を聞いていないとも。
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