夢のスケベニンゲン電軌-1-



「もお、男子最低!」
「うるせぇんだよコジミ、『良いじゃないの良いじゃないの減るモンじゃ無いじゃないの』の歌のどこがいけねぇんだよ」
「それは先生が歌っちゃだめって言った歌でしょお!」
「いつ言った、何時何分何曜日に言ったんだよお」
「・・・もう!」
「あ、泣いた」



猪下諒一は早熟な子であった。その証拠に5年生になって暫くすると女子を極端に遠ざけるようになる。
「性」に対して異常に興味のある自分を常に厭わしく思い、両親を汚らしい物と感じ、そのくせ何時も一緒に遊んでいるクラスの仲間、ベッチンやタカブーが未だにそういうお年頃なのか「ウンコ・チンコ・オッパイ」を連呼しては腹を抱えて爆笑している様を見て、少し羨ましくも思ったりするのであった。
自分も彼らの中に入って一緒に爆笑したい。女子のスカートを何の迷いも無く捲って「白!」とか「ブルマー!」とか言って腹の底から笑ってみたい。でももう彼はその輪の中に入れないと感じていた。
輪の中に入った所で心のどこかに自責の念を感じながら、友人達との距離を測る事になるだろう、それは全く彼の望む所では無かった。



「イノチャン」
ある日の昼休み、ベッチンが話し掛けてきた。
「図書室行こうぜ、オレすげぇもの見つけたんだよ」
ベッチンは得意になると眉間を指で擦る癖があった。
「何だよ、すげぇものって。またあれ? ベッチンの事だから裸の絵が書いてある本だろ。こないだの美術の本のモデルはババアだったじゃんか」
「ワリィワリィ。あれは凄かったね。そうじゃないんだよ、本当にすげぇんだって」
(ババアの裸だってオレはまともに見られないんだ)
ベッチンに連れられて図書室へ向かった彼は、心の中で小さく呟いた。

「これこれ、世界大地図だ。イノチャン、見てろよ。本当にドリフ大爆笑なんだから・・・」
「どれ」
「あった、これだ」
見ると外国の何処かの地図らしく、ベッチンの太い指が差す先には「スケベニンゲン」と小さく地名が書かれていた。
「・・・!」
「な、すげぇだろ。爆笑だろ」
「何だこれ? スケベニンゲン?」
彼は笑う以前に、心の奥深い所で異様な衝撃が走るのが判った。何処と無く笑い損ねたような片付かない気持ちでベッチンの方を向き直ると、
「何? これ」
「世界中のスケベが集まるんじゃない? でもエロマンガ島くらいは面白いだろ」
「あぁ。そうか、スケベニンゲンかぁ」

その日の午後の授業時間中、彼は真剣に何かを考えていたようだった(世界中の助平が集まる・・・)。



彼は性、ひいては「スケベ」に対して並々ならぬ興味を抱いている事は自分で判っていた。と同時にそれを隠す事で彼なりの「正しい人」たらんとする努力も怠っていなかった。
家族でテレビを見ている時、例えば洋画の中にキスシーンがあったとしよう、大抵彼は直ちに目を背け、子供部屋に帰って行く。胸中(おぉぉぉ!最後まで見たい!)等と叫びながらなのは無論であった。
道にエロ写真の切り抜きが落ちていたとしよう、大抵彼は道を引き返し、遠回りをするのが常であった。胸中(くぉぉぉ!拾いたい!)等と叫びながらなのは無論である。
思春期に必ず訪れる(厄介極まりない)極端な潔癖症は、そのまま劣情への興味の裏返しに過ぎないのである。

両親を始めとする周囲の大人は、常々そんな彼の表面を評して「糞真面目だからあの子は」等と言う。そして彼自身はそんな評に接すると、外見は「いわゆる良い子」の態を続けつつ、心中では違う事を叫んでいた。曰く(俺はスケベだ、俺はエッチだ!)。

彼がそうなってしまう程には彼の両親は厳しい親では無かった。歯科医の父は至って開放的であったし、生け花の出展等で留守勝ちになる事が多い母にしても何一つ生活について厳しい注文を付けた試しは無かった。それは幼稚園の頃から「品行方正な」我が子に対する信頼感があったからに違いない。
確かに彼は「良い子」である事に居心地の良さを感じて来ていた。そして思春期を迎えてしまった彼は、同時にその居心地の悪さも感じている事に気が付いている。


「ただいまぁ、お母さん、ボクちょっと図書館行って来る」
「今から? 5時には帰りなさい」

何だかとても素敵な事のように思えてきた。「スケベニンゲン」の事である。
世界中のスケベが集まる町。そこでは誰もがおおっぴらに「スケベ」を謳歌している。世界中の彼のような「俺はスケベだ!」と叫び出せない少年達の憧れの聖地。母親から「そこは大人になったら行きなさい」と言われているに違いない町。それがスケベニンゲンだったとしたら、何と素敵な町である事か。彼はその町についての情報を得たかった。

彼は図書館に通い詰め、やがて幾ばくかの情報を入手した。どうも「スケベニンゲン」はオランダにある保養地で、海岸沿いにホテルやブティックが立ち並んでいる。第二次大戦中まではオランダ国鉄の駅から海岸まで路面電車が通っていた。そこまでは判った。
もうそれで充分だ。「保養地」だからやっぱりスケベだ。「ブティック」が判らないが、当然スケベに決まっている。きっとブティックの中では目を覆うばかりのスケベが行われているに違いない。路面電車があったと言うが、きっと運転手も車掌も乗客も皆髭を生やしていたんだろう。そうに決まっている。



そもそも彼は彼なりに「スケベ」の定義を持っていた。

「髭」はスケベである。特に口髭を生やした男は例外無くスケベだ。だから英語塾のテキストに出て来たチャールス・ブロンソンもスケベだ。だって口髭だから。
全世界口髭会議の方々へ一言申し述べれば、本章は一少年の心中の妄想を著しているのであり、著者は口髭に対して何の偏見も持っていない事を明らかにしておく。

「ハゲ」はもっとスケベだ。彼はいつも心のどこかで頭髪が抜け去る事を期待している。そうすれば周囲の人々はきっと「あの子はスケベに違いないのよ」と認めてくれるであろうから。
世界禿頭連盟連合会の方々へ一言申し述べれば、本章は一少年の心中の妄想を著しているのであり、著者は禿頭に対して何の偏見も持っていない事を明らかにしておく。

「痩せている人」は甚だしいスケベだ。だって痩せているから。「太っている人」は言語道断にスケベだ。だって太っているから。「足の臭い人」は犯罪的にスケベだ。だって(以下略同)。

彼がこれまで接してきた「スケベを匂わせる」物件も数多あった。

例えば駅北口の通称「油横丁」と言ういかがわしい一帯があり、先生から絶えず「そこへは行かないように」と注意されている如き場所であった。
通常先生が「行くな」と言う場所であると言う事は「そこはスケベが山盛りだから行ってはいかん」と言う意味であるに決まっている。

にも拘わらず、彼は一度家族と一緒に「油横丁」へ行った事がある。
そこは殆ど全ての店の換気扇から油ぎった煙が吐き出される為に町全体が真っ黒に見えた。黒い壁と夜空が一つになって、まるで黒い天井が覆い被さっているようだった。青服の労働者がコップに酒を注いで笑いながらあおっている。その横にアッパッパを来て白く弛んだ皮膚をした中年女が嬌声を上げながら笑い転げている。焼き鳥の串を咥えた父親が彼にこう言った。
「おい諒一、この後真夜中になるとな、この辺にはマッチ売りの少女や立ちんぼが出るんだぞ」
「バカ、もうお父さん、そんな事子供に教えてどうする積もりですか」等と母がツッコミながら笑いこけていた。

今思い返せば「マッチ売りの少女」も「立ちんぼ」もスケベのキーワードなのではないかと思えて来る。その後彼は「マッチ売りの少女」を何度も夢に見た。
最後のマッチが点いた時、火の中に死んだお婆さんが出て来る前に彼は少女の肩を押さえ「見せろ! 見せろ!(何をだ!)」と叫んで目が覚める。夢のお告げかは判然としないが、この夢はほぼ事実を物語っていると言えよう。

前年、彼が4年生の夏に、一家で熱海の「保養所」へ行った事があった。翌朝海岸通りを散歩していると、昨日は気付かなかったが岬の上に城が建っている。更に良く見ると城までロープウエイが通じている。熱海城と書かれた看板の下の方には「熱海秘宝館」とも書いてあった。紫のくねった字体で書かれており、明らかにスケベの匂いがする。
「お父さん、あそこに行ってみたい」
「どれ、お城か」
「うん」

勿論城自体にスケベの匂いは無い。けれども城に行きがてら、例の秘宝館の横も通るに違いない。入る事は体面上(その他の理由も無論あるのだが)許されないが、横目でチラ見位なら出来るだろうと言う計算である。

「ちょっと時間が無いなぁ。帰りの道が混まない内に帰ろうよ、な母さん」
「そうですね。諒一、来年か再来年かその次位にまた来ましょうよ」
そりゃないぜ母さん、と思うのであった。

だから彼の胸中の「スケベ」に関する引き出しには、「保養所」と言った言葉もファイリングされているのである。「ホヨー」と言うからには何かスケベが行われているに違いない、と言うのが理由であった。

当然と言えば当然だが、彼は何も四六時中そんな事ばかりを考えて過ごしている訳では無い。彼なりに勉強もし運動もしていた。それらは中の上、或いは上の下位の位置にあり、小憎らしい程にバランスが取れていたと言って良い。
体の発達が一歩先へ進んでしまった為に起こった彼自身の相克を知る由もないベッチンやタカブーは彼を友人だと思っていただろうし、それは彼とても同じ事で、ベッチンやタカブーの無垢さに強く惹かれていたのである。かなりひねくれた友情ではあったのだが。



父親の影響で、彼は鉄道が好きであった。彼は小さい頃から父の書斎に飾ってある金色に輝くHOゲージのSLが欲しいとねだったものだったが、遂に小学2年のクリスマスに小さなNゲージの電車を買って貰ったのである。

「子供のお前にはこれで充分。HOは大人のモノだよ。あ、待て、でもこれ面白いな。へぇ、車内の椅子も付いているんだ。今気が付いたよ、ちょっと見してみな」等と言いながら、父は子の玩具を取り上げて遊ぶ。
その内に電気機関車と寝台特急、そしてコンテナ列車が揃い、複線の線路を板に打ち付けて遊べるようになった。
そんな父親の書斎には、鉄道関係の本が並んだ一角があった。その殆どが洋書で、何時でも自由に見て良いと言われていたのを良い事に、暇さえあれば書斎に潜り込み、外国の鉄道写真に(文章は読めないから)見入っていたのである。

彼はその事を思い出した。父の書斎にある鉄道の本は殆ど外国の物ばかりで、オランダとは詰まり外国の事であるからきっとスケベニンゲンの路面電車の事にも触れているに違いない。もしそんな記事があれば、多分物凄い事になっているであろう海岸の風景や、例のいかがわしい「ブティック」なる施設の写真も見る事が出来るに違いない。そう決めた彼は眦を決して父の書斎を荒らし始めた。

珍しく日本語で書かれた本があった。保利絢一氏の著した「ベネルクス軽軌道を行く」と言う分厚い本である。早速目次を見て該当する鉄道があるかどうか調べる。あった!

「スケベニンゲン電気軌道」と言う項目。しかし内容を要約すれば「同国の著名な保養地、スケベニンゲンには、1943年まで路面電車が走っていた。大戦の激化で運行休止となり、戦後も復活していない」に過ぎず、肝心の写真も1920年撮影と書かれたものが一枚、古めかしい建物の並ぶ海岸通りの道路際を行くチンチン電車を写したものだった。どこにもスケベは映っていない。
そうか、これは1920年と言う昔の事だから今よりおおっぴらにスケベじゃなかったんだ。
そう言い聞かせながらも、彼の心中で彼の夢、世界中のスケベが集まる・・・が萎んで行くのをはっきりと感じ取っていた。

翌年の正月、彼は風疹を患って寝込んでしまった。高熱が続き今日が何日かも判らない状態が続いた。その間、彼ははっきりした夢を見た。



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