BR137‐その数奇な運命
「BAUREIHE137、KAWASAKI、JAPAN!」
観衆がどよめく。ドイツ鉄道の記念行事に何故日本の機関車が参加しているのであろうか。走り寄ってくるその小柄な機関車はどう見てもドイツの機関車に他ならない。しかし他の機関車と異なって、その機関車のフロントデッキには5カ国の国旗が翻っている。フランス、ベルギー、中央にザールラント、ドイツ、そして日本。
1914年に勃発した第一次世界大戦は、凡そ人類が始めて直面する「総力戦」であり、殊に所謂西部戦線と称されるフランス・ベルギーを包括する長大な塹壕陣地を挟んでの対峙は、明らかにそれまでの欧州人の戦争観を一変させるに足るものであった。
塹壕戦、それは生産と補給の戦いに他ならず、国の総力を挙げて生産した消耗品(語りたくはないが、無論それには一般兵士も当て嵌まってしまう)を絶え間無く前線の各部隊に補給し続けなければならない。それを一日でも怠れば一日分の補給を欠く戦域が出来る事になり、そこに目を付けた敵軍が弱体化した味方戦線を突破するかも知れない。そこから全戦線が崩壊する事にも繋がり兼ねない。
将軍達は一点の曇りもない眼差しでそう言うのであった。
補給の為塹壕地帯の数キロ手前に位置する「補給端末駅」を訪れるだけの機関車であっても、そこが戦地である以上危険は伴っていた。飛行機が未発達の時代であるとは言え、後方と言えども決して安全では無かったのである。その主な理由は両軍共多用した「長距離砲」による補給線の切断を期した鉄道施設への砲撃に求められる。
絵のように美しい北仏鉄道のS2d級や、煌びやかなバイエルンのプファルツ級が、塹壕の南北で次々と砲弾の犠牲となり、その様子を目にする一般兵士の目には「又1914年までの思い出が一つ崩壊して行く」様と映ったに相違ない。
ドイツ側に比べて連合国側の輸送事情は多少マシだったであろう。
攻め込まれているフランスは「内線作戦」を容易に採り得るし機関車が不足すればイギリスから借用しても良かった。しかし開戦3年目の1916年ともなると正面装備の増産に工場のラインは占拠され、どの国でも機関車を製造する余力が無くなってしまったのが現状である。1917年にはアメリカが参戦し膨大な工業力の成果を見せつける事になるのであるが、当時アメリカは中立を宣言しており、英仏軍の輸送担当官は手持ちの機材で戦線を維持する必要に迫られた。
1916年5月、ベルダン要塞攻略戦が一段落し、双方合わせて140万人(!)の戦死者を出しながら得る物は何もなく終わった頃である。
日本の商社に外務省を経由して「機関車売却サレ度シ報酬ハ適価ノ三倍」の一報が入る。発信元はフランス政府であった。折りからその商社は、成立したばかりの中華民国政府と契約を交わし、貨物用蒸気機関車45両を華南鉄道に納入する予定であった。
メーカーは1914年から生産を開始し、既に半数は納車を済ませている。後の半数24両はこの年の6月に船積みの予定であり、神戸の埠頭にシートを掛けたまま眠っている。フランス政府の申し出を受けたその商社のトップは「適価三倍」の文字に目を奪われ、「行き先変更や、直ぐに仏国に送れ、支那は後回しでえぇ」と決断し、ここに24両の機関車の運命は大きく変転したのである。日本人の極端な機会主義、拝金主義は、既にこの時代にその萌芽を伺えるようなエピソードである。
幸いな事にフランス資本で建設された華南鉄道は右側通行であり、制動装置、連結装置、軌間についても欧州と同一の規格であったせいで、殆ど改造を受けなくてもそのまま使用が可能であった。同年6月、慌ただしく船積みされた24両は岸壁を離れ、その後二度と日本の土を踏む事は無かった。
約3ヵ月後、駆逐艦の護衛を受けた輸送船団は、数隻の犠牲を払いながらようやくマルセイユに到着した。紅海で撃沈された一隻の貨物船には3両の機関車が積まれており、同勢21両に減ってしまった。陸揚げ後、火を入れるそばから作業員が迷彩を施し始め、更に刷毛で直接通し番号を記入し、それらのペイントが乾かない内に彼ら21両は戦線へと送り出されて行ったのである。
輸送部隊の兵士や鉄道作業員等はこの新来の機関車を見て、ドイツからの鹵獲品であると信じ込んでいたようである。太く中心位置の高いボイラーや小さな動輪、堂々とした風采は明らかにヘンシェルかマッファイの作品であろう、ある英軍将校はこのように日記に記している。彼、ウインストン・チャーチルは後にあの一群の機関車は日本から購入したものだと聞かされると、即座にこう納得したと言う。成るほど、山東半島で日本軍が鹵獲した物だね、連中の規格に合わないから売って寄越したのだろう。
1917年、カレーに上陸した米軍の第一波の先頭に立つ「リエージュ号」。無蓋車の随伴歩兵の前で、合衆国騎兵隊パットン中佐と、歩兵隊アトキンス少佐がガッチリ握手している。後ろでは歩兵が大歓声。
「オイ、俺たちは戦車と一緒なんだってよ!」「イヤッホーイ! これでジェリーの機関銃も怖かねえな!」
1916年9月から1918年11月までの間、21両いた仲間の内8両を砲撃や事故で失い、13両にまで減少しながら良く連合軍の戦線を支え切った。
長かった戦争は終わった。
主戦場になったベルギーでは復興の為に必要な資材が払底していると報告を受けた欧州復興会議では、当座の手当てとして13両に減った日本製機関車をベルギー国鉄(SNSB)に割り当てる事に決定し、整備を受けた彼らは1919年1月からベルギー炭田地帯で運炭列車を牽いて活躍する事になる。彼らはベルギー鉄道員の手によって大事に扱われ、一時の平和を満喫しつつ同国の復興に力を貸していた。
戦間期の平和の夢は僅か20年で破られる。
1940年、ドイツは再び興隆し、空軍の援護を得た機甲軍団はフランダースの野に侵入を開始した。この時も英仏側は第一次大戦型の塹壕による対峙を想定してこの危険な隣人に対応して来たが、予想を覆す電撃戦によって低地諸国は呆気なく降伏、大国フランスも一ヶ月後には降伏を余儀なくされていた。
ベルギーに入ったドイツ人は、発電、製鉄に入用な石炭輸送を最大限確保する為、ベルギー炭田地域にドイツ製の大型蒸気機関車を投入する一方で、従来そこで使用されていた機関車はより重要度の低い運炭支線に回す事を考えた。かつてドイツを破る為にはるばる欧州入りした日本の機関車は、皮肉な事に今度はドイツの為に力を貸す事になったのである。
彼ら13両はザールラント州の要衝ザールブルッケンに配属され、ここを起点に四方へ延びている支線で主に貨物列車を牽引して活躍した。同国の56型テンダ機関車に酷似した不思議な機関車を、ドイツ国鉄(DRG)の担当者は歓迎した。劣質炭でも良く走り、通常の整備をきちんと行っていれば故障する事は先ず無かった上、本線上での高速運転にも耐える性能を発揮出来た事が彼ら技術陣を喜ばせたのである。占領地からの鹵獲品としては珍しく正式の形式名、137型を与えられた。プロシャの優秀な貨物用コンソリデーション、13型に編入された訳である。
DRGではこれを長く使い続ける積もりであったのだが、とは言え部品群は独特の設計である為、定期検査を経る度に次第にオリジナルの部品はドイツ製のそれに交換されて行き、戦争が終結する1945年頃までにはすっかりドイツの機関車らしい顔つきになっていた。
1944年暮、勢いを失ったドイツ軍は、その年6月フランスに上陸した連合軍に押し戻され、1945年2月頃には西部戦域では戦闘らしい戦闘も無くなっていた。戦車を先頭に立てた米軍はほぼ無血でザール州を席捲し、降伏の意を顕す動員兵に目もくれずライン川に向けて走り去った。
ザール炭田地帯は後に英軍管轄区域となったが、1945年4月、ザールブルッケンに視察に訪れたチャーチル首相は、駅で発車を待っていた13706を発見するや発車を推し止め、白ペンキを借りて炭水車にこう落書きをした。
「我が戦友と此処に再会する。彼は1916年から1918年まで、我々のかけがえの無い戦友であった。02/APR/45、W・チャーチル」
これはチャーチルの落書機関車として著名で、今でもトリアー機関区に保存されている13706の炭水車には、チャーチルの落書きがそのまま保存されている。
因みに反対側には同行した茶目者のテッダー大将が、親方が落書きしているのなら俺も、とついでに画いた「キルロイ参上」の文字までご丁寧にそのまま残されている。
戦争は終わった。その後もザールラントに居残った13両は、軽い軸重と強力な牽引力に物を言わせて脆弱な支線の主となり、38型や86型等と共に1960年代終わり頃まで煙を上げていた。
137型が最後の活躍を見せたのは全長30㌔余りのローカル線、ビュンゲンタール線であった。
ザールブルッケン近郊のビュンゲンアムローダーバッハ駅の広大な貨物ヤードから分岐して沿線の村々と小規模な炭坑を結びながら、丘陵に囲まれた終点カールスプラッテまで延びる。
戦時中は終点から更に北上し、
ビューレンハイムを経由してトリアーまで行っていたが、同区間は1947年に廃止されている。この静かな路線で137型、いや9600型は一日ほぼ3往復の貨物列車と4往復の旅客列車を担当した。
そしてここを、長く苦しかった旅路の末に見出した安住の地と思ってか、掠れ気味の細い汽笛を響かせながら元気に働い
ていたのである。
1969年には同線の旅客営業は廃止。石炭輸送は50型に交替し、その年の内に137型の内13701はザールブルッケンに、13706と13710はトリアーに保存され、残余は廃車された。
そして1995年。動態保存されていた13710はフランクフルト機関区で執り行われた鉄道パレードに参加し、そしてこれまで殆ど知られる事の無かったその特異な来歴を多くの観衆に披瀝、パンフレットとスピーカーの解説によって観衆は同機の数奇な運命に瞠目し、激しい喝采を浴びるに至ったのである。
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