BR137‐袖擦り合った人々-帰還兵




 

1945年8月。
白く埃っぽい道と貧弱な線路が寄り添っている。
錯雑した地形、荒れた耕地、貧しげな森、そして抜けるような青空。
一人の帰還兵が田舎道を歩いて来る。肩章も袖章も無く、略帽の徽章も当然無い。髭だらけで髪は蓬髪。今の彼は「この世の罪を全部一人で背負い込もうとした、2000年ばかり前の何とか言うヤツ」に似ているかも知れない。足取りは重く、迷いながら道を取っているようにも見える。

と、遥か後方から汽車が近付いて来る。暑さの為煙りは出ないが、盛大な音を伴ってゆっくりと彼を追い抜いて行く。

「よう、どうした戦友、乗って行かないのか」

「これだけ遅いんだ、走って飛び乗れよ、戦友」

緑色の客車の窓から口々に叫ぶ者達もやはり帰還兵である。彼は怒鳴り返す。

「生憎だな、俺は一人で歩くのが好きなんだ」

早速賑やかな返答が戻って来る。

「勝手にするさ。女房の顔を早く拝みたくねぇのかって事よ」

「戦友、済まないが先に行くぞ」


 

彼は苦笑いを見せて路傍に腰を下ろし、堅くなったパンと水筒の水で飢えを癒す。

夕餉近く。丘陵の影に隠れたみすぼらしい村の入口に彼は立っている。通りを行く人影も無く、仕方なしに通りで遊ぶ少女に近寄って彼は腰を屈める。

「お嬢ちゃん」

少女は突然現れた帰還兵に驚き、逃げ出そうとする。明らかに帰還兵を恐れている様子である。

「怖がる事は無いんだよ。おじさんは、木地職人のローマイヤーさんの家に行きたいだけなんだ」

建物の影から少女の兄らしい少年が飛び出してきて彼女を家の中に押込め、彼の前に虚勢を張るかの如く顎を突き出して見せる。

「坊や、済まないがローマイヤーさんの家は」

「あっちだ。町の広場に緑のファサードのある家があるから、その裏手だよ、判ったかい」と言うなり家に飛び込んでしまう。

彼は帽子を被り直すと、疲れ切った表情で紫色に染まった街路を歩き出す。

戸口に現れた女は若そうに見えるが、痩せ細り、すっかり脂が抜け、パサパサに乾き切っている。もう何年化粧をしていないのか、恐らく当人にも思い出せまい。しかし別の意味で彼は安堵を覚えていた。これまで訪れた大抵の家の夫人達の後ろから、「おいマリア、そいつは誰だ」等と言う男の声が聞こえたものであった。そう言う情景に接する度に、彼は努めて無表情を装う事にする。
そんな中で彼女の周囲には、男を感じさせる何物も感得出来ない、もうそんな事ですら彼の僅かな慰めたりうるのである。

町の俯瞰。彼女、ローマイヤー夫人の住む、裏庭然とした家。灯かりの点らない窓。薄闇が辺りを覆う。突如激しく泣き叫ぶ声。
彼がイギリスの収容所から解放されて以来、故郷への旅の途中で戦友達の家々に届けた報せは、最も救われない者を更に水に追い落とすばかりである。何時までも続く報われない作業。彼は戦っていた時よりも生き長らえた今が耐え難かった。

「奥さん、時の経過と正しい生活のみが、何時かあなたを癒す薬となるでしょう。今を耐えなければ、より良い明日はやって来ません。ではさようなら」

「待って下さい。今夜はどうか泊って行って、主人の最期の様子を聞かせて」



 

彼はそれに答えず、後ろ手に静かに扉を閉める。少しの間、彼は立ち去る事を躊躇っていたが、やがて扉の向こうで忍び泣く声が切れ切れに聞こえ始めると、意を決したのかその場から歩み去る。

暗い駅舎の待合室には彼の他に誰も居ない。彼は片手で略帽を握り締め、俯いて何事か考えている。薄汚れた銀髪を掻き毟ったりもする。

「どうしたレンツ、あの気の毒な女は、お前が再び来る事を願って、僅か200メートルばかり先で絶望に囚われて泣き暮らしていると言うのに」

「違うぞレンツ、あれはお前の女ではない。お前の身代わりになって死んだ戦友のものでこそあるのだ」

事務室から太った駅長が顔を出して、彼を暫く観察している。

「トリアー方面行きは3時間の遅延だよ。ひょっとしたら今日は列車は来ないかも知れない」

そう言うと再び事務室へ引っ込む。
彼は何かを決したように頭を上げる。頼りない足取りで駅舎から出ると、冷え冷えとした夜気の居座る駅前広場に出て行く彼の姿。



1947年8月。薄暮の頃。
ローマイヤー夫人の家の窓には灯火が差している。
時折彼女の屈託無い笑い声が聞こえる。男の慌てるような声に被さって赤ん坊の泣き声まで聞こえて来る。
その男があの帰還兵、レンツ・リュプケであったかどうかは定かではないにしても。



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