厚木地区の鉄道網の変遷-2(全3ページ)
Fig5:1939(昭和14)年
厚木町近傍における戦前の鉄道黄金期がこの時代である。
見て判る通り鉄道が二重の十文字を描いており、その何れもが高速電車を走らせ、或いは最新技術の粋であるガソリンカーを走らせている状況である。この時代、厚木町から平塚駅へ出るのに約30分。横浜まで1時間。新宿へ略同1時間。小田原へも45分で到達しており、その上相陽「厚木町駅」前には小規模な数社のバス会社が発着所を設けていて(その内の1社は「相模軌道運輸」の後身である「トヨダ自動車商会」)、北は藤野から南は藤沢まで、東は横浜から西は秦野まで濃密な路線網を築いていた(尤も本数は多寡が知れている)。
同時にこの時代は戦時体制前夜とでも言うべき時代であり、セメント産業を支える砂利の採取が盛んに行われた時代でもあった。「相模興産専用線(G)」はそう言う専用鉄道の一つであって、図中には相模鉄道厚木駅から南下する機関路線(1067ミリ)と、相陽厚木町駅構内に入り込んでいる手押路線(610ミリ)が描かれている。実際にはこればかりではなく、相模川両岸に沿って網の目のように各軌間の鉄道・トロッコ線が入り組んでいたのである。
前段で述べた「相陽・神中連絡線(H)」計画が最も具体的に進んだのがこの時代であった。「厚木町駅」構内の砂利積み込み側線を延長して町の北側を迂回し、相模川と小鮎川が合流する辺りに長大な単線の鉄橋を設けて、対岸の上郷村で相模・神中両鉄道と連絡をさせると言うものであった。測量まで済んだ所で資金面の遣り繰りが付かず結局計画はお流れになった。
歴史にifは禁物だが、もしこの時点で「相陽・神中連絡線」が完成していたとしたら、その後の鉄道地図はどう変化したであろうか。少なくとも戦後に至って小田急随一の赤字線と揶揄され、何時の間にか廃止された小田急相陽線伊勢原-厚木町間は廃止される事は無く、活気溢れる路線として存続していたに違いない。それと共に厚木町駅が位置する旧市街地の地盤沈下も避け得たであろう。
Fig6:1944(昭和19)年
昭和も19年となると、この地域の交通地図が激変している事に気付かされる。その大要は東京西南部の私鉄各社が軒並み東京急行に合併され、旧小田原急行は東急小田原線に、相陽電鉄は同平塚線にと名称が変更されている。
同時に東急内における車両の行き来も盛んであって、例えば旧相陽モハ1は制御機器が同じ旧小田急デハ1100に編入されて小田原・平塚両線で共通運用されていた。戦後、車体の更新が進む以前は、同じ1100系であっても小田急生え抜きは3扉、相陽転入組は2扉と言ったバラエティが存在したのである。
伊勢原駅の統合や大竹車両基地の整備が行われたのも戦時下の事で、この異常な状況下、戦後における小田急・相陽の経営統一の下地が進んでいた事は誠に興味深い。
一方旧相模・神中両鉄道は、砂利や軍需輸送に関係が深いと言った特殊な事情から、この年までに国鉄に編入されている。神中線臺東(たいとう、後の相模大塚)等は厚木飛行場とその周辺の軍需工場への引込み線が錯綜している。そうした路線は国鉄が一貫輸送を行った方が理に叶っているのであろう。線路配置図によると、相模から神中へ直通し易い線路配置となっているが、これは平塚方面から運んで来たエンジンの部品をそのまま基地へ輸送する便を考えての事だと考えられる。
この図に先立つ2年前の昭和17年、既存の小田原急行河原口駅での乗り換えの便を良くする為、相模・神中両鉄道は立体交差直下に「中新田河原口駅」を設置している。これは厳密には戦時特例によって「厚木駅構内にある仮乗降場」として設けられたもので、駅名は違うが戸籍上は同一の駅である。丁度四国の小松島線の終点「小松島駅」の構内に「小松島港仮乗降場」が存在するようなものである。昭和37年に旅客扱いを「旧中新田河原口」で統一するようになるまで、神中線の終着駅はこのような二重構造になっていたのである。
厚木町側の相模興産専用線はこの時期線路を増設しているが、これは本来相陽・神中連絡線の為に買収してあった土地をトロッコ用に転用したものである。
Fig7:1950(昭和25)年
長かった戦争が終わり、ようやく世情も落ち着きを取り戻した昭和25年の路線図がこれである。
これに先立つ昭和23年、戦時統合で出現した大東急は解体され、京浜急行、京王帝都、小田急の各社が再び独立を取り戻した。しかし戦前のように独立を取り戻せない鉄道もまた存在していたのである。
前章で述べたように、大東急時代から現場レベルにおける小田急・相陽の規格統合は進んでおり、尚幾らかの綱引きはあったにせよ、結果として旧相陽電鉄は小田急独立と同時に小田急相陽線となったのである。
この時代にはまだ砂利輸送は盛んであって、「相模厚木」であれ「厚木町」であれ「厚木」であれ、その側線と言う側線に背の低い無蓋貨車がゴロゴロしていた。最盛期の昭和29年には相陽線厚木町~平塚間に1日8往復もの砂利輸送列車が走っていたと記録にある。牽引は小田急のEDに混じって相陽生え抜きのスリムなED1071、1072(旧相陽デキ1、2)が活躍していた。
対岸の国鉄相模・神中線においても砂利輸送は極めて多く、ロクサン型電車や41000系気動車の合間を、茅ヶ崎のC11や横浜の8620(金のベルが付いた8630も入っていた)、そして久里浜のDD12が貨物列車の先頭に立って織るように行き交っていた時代であった。
その3へ