歳月はただ押し黙って流れて行ってしまいます。
だから黙って昔を振り返りましょう。

ここでは定点観測を交えながら、現在の羽根鉄道の姿をご覧頂きます。



fig.1-1 羽根本町車庫脇


昭和56年10月18日。
かつての羽根本町には、小ぢんまりとした良い雰囲気の車庫がありました。 開業以来増築に継ぐ増築で、様々な形をしたクラが無定見に建ち並んでいる 様。それもまた良いものでした。
機関区へ通うには、「ふみきりちゅうい」の標識だけの踏み切りを渡って 行かなければならず、幾度となく羽根通いをしている内にこの看板がすっかり 気に入ってしまいました。確かこの写真より少し前の時点では「ふみきりちう い」と書かれていた筈です。

fig.1-2 羽根本町車庫脇


平成14年08月04日。
その後車両の数が減った事もあり、車庫は少しづつ取り壊されて行きまし た。車庫前の草原(留置線とも言うが)は廃車体置き場であった筈が、いつの 間にやら「整理整頓」されてしまったようですね。
例の「ふみきりちうい」の看板もお役後免となり、普通の警報機付踏み切 りに変っていました。その看板が欲しくて欲しくてならなかったのですが(ウ チの庭に飾っておく積もりだったんだ)、現場の話では燃やしてしまったそう で。

fig.2-1 羽根本町駅


昭和54年12月01日。
寒風が吹き抜けるかつての羽根本町駅の様子。木造のホーム上屋や、薄暗 い駅舎の差掛けが懐かしく思い出されます。駅舎の中はたてつけが悪く、昼間 日が差していてもストーブを盛んに焚いていました。

「羽根は行きたし婆さんウザし ここが思案の中屋敷」
駅売店にはいつも嘱託の口の悪い婆さんが座っていて、たまに曲がった腰 を伸ばし伸ばし、駅舎内の三和土に水を撒いていたのも今は思い出。
「まぁったく、用も無ぇだに汽車にべぇ乗ってらいて何が楽しいんだかさ。 お客さん、遊んでべぇいらんねぇでしっかいしなきゃよ、嫁さんの来手もねぇ だぞ」
あぁ確かに口が悪かった。嫌な婆さんだったなー。

fig.2-2 羽根本町駅


平成14年08月04日。
変っていないのは駅舎だけでした。ホームは嵩上げされ、上屋も新しくな り、側線は草ボーボー。車両はご覧の通りです。夏休み中のこととて「イマド キ」の子供達が訛りながら乗車していました。お前らちゃんと宿題やってらん のかさ。いかんいかん。俺があの婆さんになっちゃってる。
その婆さんですが…。本当に変っていないのは駅舎だけでした…。

fig.3-1 羽根本町車庫脇


昭和56年10月18日。
羽根本町の車庫の片隅には、いつでも変わったものがとぐろを巻いていま した。最初この「賞味期限切れ」の物件を見つけた時はフイルムの残量を気に しながら撮影したのを記憶しています。
何しろ貧乏で、フイルム代を少しでも浮かそうと、出かける前に新宿の 超有名カメラ店「ウシゴメカメラ」に立ち寄り、パッケージの無い怪しいフイ ルム(メーカーモノの半額位だったっけかなぁ)を買い込むのが旅の始まりの 「儀式」でしたから、出来あがった写真はと言えばご覧の通りお粗末極まりな いもの。それにしても意のままに撮影は出来ませんでした。

fig.3-2 羽根本町車庫脇


昭和57年11月03日。
そんな事をしているから貴重な松葉スポークを撮影するのにも「藪っ漕ぎ」 をしなければならなくなるんです。馬鹿だよ俺は。飯なんか一週間位食わな くても死にゃしないんだってのに。そんな訳で翌年にはご覧の通り。何故か 途中まで解体して止めてしまったらしく、ボロと綴れのごっちゃ状態です。
あ、バッファーの丸穴見っけ。

fig.4-1 羽根駅近傍


昭和54年04月10日。
羽根本町−羽根間は、まるでウナギの寝床のような羽根町の裏庭を通る感 でした。「羽根」の語源は平野の中の微高地を示す古語「塙」であると言われ ているのですが、町の北側はどうした訳か湿地帯が多かったと記憶しています。
羽根の薮蚊はこの辺りでも獰猛な事で有名で、夏など撮影で藪に一時間も 潜んでいると、二の腕から顔からお構い無しに食付かれ、中々の男前になった 事を思い出しました。まだ「虫除けスプレー」などと言う結構な商品が売られ る以前の話です。

fig.4-2 羽根駅近傍


平成14年08月04日。
車両は映り込んでいませんが同じ場所です。
薮蚊もすっかり影を潜めてしまいました。湿地が埋め立てられ溝が暗渠に なったお陰で、撮影の時さだめし藪に潜んで列車を待つのが楽になったであろ うと喜んでいたら、その藪まで無くなっちゃった。本当にこんなにキレイキレ イにしてしまって良いんですかね?
…良いに決まってるじゃないですか!

fig.5-1 羽根本町車庫裏


平成14年08月04日。
すっかり明るい雰囲気になった本町車庫です。502がのんびりと体を洗 って貰っている辺りは、かつて102が解体を待っていた場所と同じ場所。


fig.6-1 曽原−新郷間


平成14年08月04日。
線路脇に車を停めて、暑いのでクーラーをガインガインに掛けながら列車 を待ちました。正に理想的な車ロケハン。30を過ぎると本当に根性が無くなり ます。面の皮も厚くなります。何が面倒で何が面倒でないか即座に計算出来る ようになります。
だからと言って10代後半のあの時代に帰りたいかと言うと…。帰りたく な…イヤイヤ、イヤ、帰りたいぞ。無茶苦茶帰りたいぞ。
カネが無いからコー ラの500ccビン一本を昼飯代わりにしたり、落ちていた吸殻を集めてほぐして 時刻表で巻いて美味そうに吸ったり、昼飯時に沿線の農家に入って行って牛の 糞を片づける換りに飯を食わせて貰ったり、色々情けない真似をしながらの 旅だったけど、何よりもそこにキハ41000がいた、ちょいと東奥線まで戻れば スハ43やオハ35が当たり前に走っていた、上手くすればスハ32にも出会えた、 などと私の中の「マニア」の部分はそう言って憚りません。

でも私の中の「普通人」の部分は違う事を言っています。
「面倒臭ぇ」

fig.7-1 曽原近傍


平成14年08月04日。
快適にかっ飛ばすキハ501の後部窓から。大分家が立て込んで来たとは言え 羽根町郊外のこの辺りはまだまだ田んぼです。
画面右手に移っている田舎道は、今を去る70年以上昔、彼の市川霧蔵と20 人の悪党が息も絶え絶えになりながらチャンバラ映画の撮影をした「現場」です。そして40年前には、彼の谷繁久弥がこの線路 を疾走する汽車から、淳伴三郎の運転するミゼットにヒラリと飛び移った「現場」です。
お役人様共が「町道B31号線」とお呼びになっておられるこの愛らしい 田舎道の事を、地元の好事家は「銀幕街道」と呼んでいるそうです。どちらが より素晴らしい名前かって?…聞くなよそんな事。