「櫻街道の血闘」


1926年新映 市川霧蔵主演 佐山康彊監督

あらすじ:藩主の逆鱗に触れて暇を出された梓原之進(市川)は、ふとした事から世継ぎに関する家老の陰謀を知る。参勤交代で江戸表に居る若い藩主(片丘千重蔵)に變事を知らせんものと、原之進は櫻街道を駆ける。追いすがる家老一派の侍たち。原之進、「廿丁走り斬り」。街道はたちまち死骸で覆はる。江戸へ走る原之進の運命や如何に。
(日本シネマ:1940年6月号)

この映画の特徴は何といっても「二十丁走り斬り」でしょう。
ちょうど曽原駅と羽根本町駅の間に約2㌔の直線区間があり、上手い具合にその横を「松並木のある細い田舎道」が平行しているのです。佐山監督はここに着目し、田舎道を疾走する霧蔵を併走する羽根鉄道の列車から撮れないものかと考えたのです。
こうして我が国初の「列車撮影」による映画が撮影されました。

撮影は1925年10月に行われました。問題の「二十丁走り斬り」のシーンは、延々20分以上に亙る長廻し(一場面で延々と引っ張る) ですから、一度失敗すると撮り直しにかなりのお金が消えて行きます。一度でOKを出すべく、監督、霧蔵、そして斬られ役の大部屋俳優達は真剣そのものであったそうです。
斬られ役は、東京から20人程連れてきましたが、実際の撮影には全然足りるものではありません。脚本によれば「原之進、百人以上斬ル」と無茶苦茶なト書きがあった程で、仕方なく歴戦の大部屋俳優達は「キャタピラ方式」を考え出しました。斬られて画面外にフェードアウトすると、すぐさま疾走する霧蔵と撮影列車を走って追い越し(当然カメラに映り込まないように)、先の方で再び待ち受けるのです。固より大変な方法ですが、他のエキストラを雇う事で自分達のギャラを削られるよりはずっとマシと考えたようです。

一度目の撮影はそこそこ巧く行ったそうです。所が撮影に使用した列車が、バネの入っていない古い貨車を使用したため、画面の動揺が激しく監督は結局ダメを出しました。
二度目は霧蔵が松の根方につまづいて「ヘッドスライディング」をしました。そのまま撮影を続ければ緊迫感のある映像になったと思われますが、他ならない監督が笑い出してしまった為、出演者全員が笑い転げてカット。
三度目の正直。線路内に突然牛が侵入し、列車が非常ブレーキを掛けて停止。お陰で無蓋車の上の撮影スタッフは器材ごと一回転という、キートンばりの喜劇を演じたそうです。
四回目。途中で機関車の蒸気圧が上がらなくなり、カット。
五回目。信じ難い事にカメラマンがフィルムを入れ忘れ。撮影が全て終わった後、事は露顕し、監督は激怒。二千メートル走を5回 もやらされた俳優陣は怒る気力も無く、線路端に座り込んで空ろに笑っていたそうです。
日を改めて六回目の撮影は見事成功。所が現像してみると、それまで誰も気が付かなかったのですが、背景に砂埃を上げて走るバスが映り込んでいた…。

結局一度目の「やや失敗」のフィルムを使用して上映したそうです。

使用した列車は、1号機関車と3号機関車で無蓋車をサンドイッチして仕立てたそうで、二度目以降の撮影には、羽根鉄道の古い貨車ではなく、鉄道院のバネ付きのボギー式長物車を借用した記録が残っています。

当然撮影中は一般の列車は運休だったそうです。運休に関してたった一人文句を言った「名士」がいましたが、事情を 告げられると「霧蔵が来てらえんのかさ。大変だ大変だ商売どころじゃねぇ」と叫んで、商売そっちのけで人力車を仕立てて撮影現場に向かい、まんまと霧蔵のサインをせしめたそうですから、のんびりした時代と言えば言えるでしょう。