さすらう、さまよう、これはゆめ。
たゆたう、ただよう、ここはやみ。
ながれ、ながれて、ふらふらり。
くらやみのゆめを、ぼくはゆく。
ひとすじの光も差さない真っ暗闇の中に、僕は今、ふわふわと浮かんでいた。光がないとは言っても、なぜか自分の身体全体ははっきりと見えている――周囲が塗りつぶされたような黒であるだけに、自分自身が一種の発光体のように思えてくるほど、白く、はっきりと。
瞼が重く目の冴えない感覚、浮かんでいるという認識のせいか軽すぎる身体の感覚、その身体を覆う程よい気だるさの感覚、そしてなんとなくどこか薄ぼんやりとした感のある意識――僕自身のそれらの感覚と、前後上下左右どこを見ても真っ暗な目の前の光景を合わせて考えると、今は現実じゃなくて夢の世界にいるんだということに気づくのは難しくなかった。
それにしたって暗闇の中にいるという夢を今見ているのは、今日の学校で彼女の話をしたからだろうか。だったら随分とタイミングのいい話だと思うわけで、せっかくだから本人にも伝えてしまおうと内心で決めつつ、のんびりした心持ちで僕は待った。
しばらくして、暗闇一色だった視界に違う色が混ざり始めた。少しずつうっすらと現れ始めて、やがてそれははっきりとした人の形を取る。視線が合うと、その人は安堵したように息を吐く仕草を見せた。
「こんばんは、咲良君」
「……あー、うん。こんばんは」
いつもの挨拶が交わされる。一度や二度じゃないどころかもう数えるのも面倒なくらいにはこういう形で顔を合わせているというのに、未だにお互いに遠慮がちな態度を取ってしまう。彼女は過去に負った傷が未だに癒えず、僕はその彼女の傷に触れないようにと慎重になるから、というのがその理由になってはいるけれど。それにしたってもう少しくらい砕けたほうが話もしやすいのになぁ――そう思うなり溜息をついてしまい、またそこで癖だなぁと実感してしまう。
その溜息が気分を悪くさせてしまったとでも思われたのか、小さな声でごめんなさいと告げられた。いや違うから、とほとんど反射的に否定の言葉が出る――彼女が謝らなければいけないようなことなど今まででひとつもないのだから、彼女の謝罪はきちんと否定しなければいけないものなのだ。
「僕のことはいいから。君は自分の心配しなきゃいけないだろ?」
「……でも、咲良君も、私のせいで」
「言ってんじゃん、もう僕は元気だからさ……ああ、そうそう」
このまま慰めるだけで終わるわけにはいかない、特に今回は――ここが本題に入るタイミングだろう。
「元気ついでに、文化祭で舞台に立って歌うことになったのは話したよね」
「ええ、うん、聞いた……見にいけないけど、ね」
彼女は寂しそうな表情を浮かべたが、その寂しそうなのを少しでもなんとかできればと思って、今日の学校ではあんなことを言ったのだ。
「ライブの模様、保存できないかって今日言ってきたんだよ。CDかDVDかに保存できたら、君にも見せられるからさ」
えっという声が洩れるとともに、彼女の表情が驚きに満ちたものに変わった。さっきまでとは違って生気すら窺える様子に、見ている僕も気持ちよくなる。
「まだ今日言ったばっかりだけど、とにかく持ってく方向で動くからさ。本番だって、気の抜けたステージなんかこれでもうできないし。頑張るから、僕」
ほとんど一気に僕は言った。それで彼女が少しでも元気になるならと思うと、止まらなかった。
「……うん。じゃあ、待ってる。私、聴きたい」
彼女は小さな笑顔を作って、そう言った。本当に『作った』ものなのか、それとも自然なものなのか、判断がつかなくてもどかしく思ったけれど、それは表に出さないように――何にしろ僕が手を抜けないことに変わりはないのだから。
ふうっと息を吐く仕草を見せた後、彼女はあらためて僕に視線を合わせた。
「ありがとね、お話聞かせてくれて。……今日、そろそろみたい」
「……そっか」
そろそろという言葉が出て、声が少し力を失ったのがわかった。いつとも知れずやってくる、別れの時間――別に二度と会えなくなるというわけでもないのに、僕はこの時間が苦手だった。
「またね、咲良君……期待、してるからね?」
「うん……また、ね」
挨拶を交わした後、彼女の身体はすっと形を失い、消えた。現れる時はゆっくりで、消えるのは早い――消える時もゆっくりだとそっちのほうがつらいかもしれない、と最近は思うようになった。それでも消えるのを見届けるのはあまり気分のいいものじゃない。
そして再び、僕は真っ暗闇の中に取り残される形になる。彼女と僕以外に、この空間に光と呼べそうなものは存在しない。僕も今はもう、ここに用事はないけれど。
ひとつ、あることを思い出していた。
一度だけ、僕と彼女以外の別の存在が、この空間にあった。
それは人ではなかったけれど、人格を備え、僕らの言葉を解することができる存在だった。
その存在は、自分は闇を渡り歩いていると言った。明確な理由はなく、闇を渡ることそのものが自分の存在意義なのだと、そう言った。そして本当なら、抽象的であったり存在の認識すらされていなかったりで、誰かと言葉を交わすことも本来ならありえないと――そんな『存在』に、僕と彼女は初めてこの空間に来た時に出会った。
話をするうち、『存在』はこうも言った。この場所は彼女の心の闇の中だ、と。通りがかったところに僕らが偶然居合わせて、こうして会話をするに至ったのだと。
そして、告げていった。ここの闇はあまりにも深い、と。それはすなわち、彼女が抱えた闇が深いということなのだと、そのときの僕はそう認識した。
今、あらためて暗闇を見渡してみる。
けれど思い出したその時と比べてみて、変化した様子はない。ということは、あの時から彼女の闇は少しも晴れていないということになる。
だからと言って諦めるつもりなんてない。彼女を立ち直らせたいと思う――今度こそ守りたいと、二度と酷い目には遭わせないと、強く強く願う。
細川阿由。
どうか、彼女がいつの日か光を取り戻せますように。
そのためにも、自分ができることはしっかりやっていかなきゃならないと、今あらためて僕は自分に言い聞かせた。