現在、あたしは体育館裏に来ています。
 他には漂くん、白共くん、相川くんがいます。あたしを入れた四人が、出番待ちの時を過ごしています。
 まだ体育館の中には入れません。今は三年のクラスのひとつが演劇をしている最中です。それが終わってその人たちが出て行くのと入れ替わりで、ようやくあたしたちは中に入ることができます――そう、とうとうこの日がやってきたんです。第二十五回私立川城学園高等学校文化祭! 今はメインの三人舞台のスタンバイというわけです。
「宮月、よかったのかよ。もうこっから先、出番俺らだけだぜ? 普通に観客でいてくれてもよかったのによ」
 相川くんがそう言ってきました。ぶっきらぼうですが、嫌な感じはしません――初対面に比べて、随分と印象がやわらかくなったなあと、あたしは彼に対して思います。今のこの言葉だって、彼なりの気遣いなのだということは明らかです――今この時まで自分たちに付き合わなくてもいいから、他の演目を見ていてくれてもいいんだぜという意味で彼は言っているのでしょう。
 けれどあたしは笑って首を横に振りました。
「なに言ってんの、ここまで来たら最後まで付き合うわよー。臨時とはいえマネージャーなんだからさ、あたし」
「ちっさい部だから、ンな大げさなもんでもねェけどな」
「あー、白共くん余計なこと言わないでよ、浸りたかったのにさー……うん、でも大丈夫そうね、二人は」
「そりゃあな。こんなんで緊張してたらストリートライブとかできねェよ」
「え、何それ、あたし初耳なんだけど?」
「あれ、言ってないっけ? 例のバンドメンバーで何回かやったことあんだよ。土曜日に街で集まって、ゲリラライブ的に」
「あ、それ自体は見たことあるわね……じゃあその中に白共くんたちもいたことあるの?」
「そーゆーコト。歩いてるヤツらがさ、立ち止まってこっちに来て俺らの演奏見てくれてってさ、すっげー気持ちいいし楽しいぜェ?」
 そう語る白共くんの表情は、はっきり言って眩しかったです。やりたいことをやって、精一杯楽しんでいる人の表情のように見えました。楽しいというのは本人も自分で包み隠さず言っているのだから、もう疑いようのない事実なのでしょう。
 その印象のあと、ちょっと思うところあって別の方向に視線を向けました――その先には漂くんがいます。慣れた様子の二人と違い、こちらは目に見えて緊張しています。ものすごくそわそわしていて、目はきょろきょろと泳いじゃってます。普段はこんな様子は滅多に見れませんが、昨日まで吹奏楽・コーラス・軽音の三部での合同練習を繰り返していた間に、すっかり見慣れてしまった実感もあります。
 思い出せば、ここまでの間の漂くんの印象の中には、あたしも今まで見たことがなかった新鮮なものもあります。特に白共くんたちにからかわれて取り乱したりきーきーと癇癪起こしたり、あるいは今みたいに緊張した様子を見せたり――とはいえ今のこれはまだマシなほうで、一度、全身がまっかっかになるほど恥ずかしがった挙句に熱出して倒れるまで行ったこともあります――意外と感情の振れ幅が大きい人だったというか、でもそのおかげで、あぁ、やっぱり彼も普通の人間なんだなぁという実感が強まったというか、そういう意味で親近感が持てたというか――あたしですらそう思うくらいなので、文化祭がらみで初めて関わった白共くんたちはなおのことそんな実感を抱いているんじゃないでしょうか。
 そんな彼が、これからステージに向かうのです。今は緊張していても、いざ本番という時にはきっと凛々しく歌いだすことでしょう。それはとても格好いい姿に違いないのです――これも最近になって実感したことのひとつですが、漂くんはその容姿でも誰かを惹きつける力を持っているみたいなんです。放送部のミズイちゃんが映像の中の彼を見てやけに興奮していたのを見たことがありますから。
 だけどステージの上の彼の姿というのは、あくまでも表面的なものに過ぎません。言うなれば、あたしが今回の話以前から知っていた、どちらかというとクールだけれど実は頑張り屋という、そんな格好いい面がクローズアップされるということになるのでしょう。
 あたしはその先を期待しています。このステージや今日の出来事をきっかけに、たくさんの人が漂くんのことを知り、かかわろうとするようになり――その中の何人か、今よりもっと多くの人に、漂くんが自分の内面を見せられるようになればいいと思うのです。思う、というより願う、というほうが正しいでしょうか。
 そうこう考えているうちに、体育館の中のほうから拍手が聞こえてきました。あたしははっと顔を上げました。
「終わったみてーだ、行くぞ」
 白共くんが促しつつ、体育館裏口のドアを開けました。彼が先頭で、みんなが続いて入っていきます。太陽の下から、舞台裏の暗い場所へ――一瞬だけ、目を閉ざされたかのような暗闇に戸惑ってしまいます。今は前の演目から次の演目へと移る最中で、明かりもすべて落とされています――それでも少しして目が慣れると、カーテンの向こうから漏れてくる日の光でもって、進む方向がわかるようになります。
「来たわね、みんな」
 声がして振り返ると、うっすらとですがミズイちゃんの姿がありました。
「おう、ご苦労さんだなー」
 小さな声ながら、軽い調子で白共くんが応じます。放送部は本番当日、舞台の裏方としては全演目にかかわらないといけないらしいので、忙しさは相当のものだと思うんですが――
「来たわねってミズイちゃん、なんでわざわざ?」
「決まってんじゃない。あたし、このステージいちばん楽しみにしてんだからね? 頑張ってよ?」
「おいおい……今からそんな期待すんなっつの。咲良が緊張しちまうだろ。意外とコイツ弱いんだから変なプレッシャーかけんな」
「ゲン、お前もここまで来て毒吐くなって。あー、咲良、だいじょぶか?」
 そこで視線は漂くんに集まる。それを受けて、彼は溜息をひとつ。すっかりおなじみになった仕草のあと、
「大丈夫」
 ただその一言。暗がりなので表情はよくわかりません。言葉が簡潔すぎるので、声の調子からも様子はうかがえません――逆に、変に様子がわかってしまうよりは、あたしたちも余計なことを考えないで済むから、これでいいのかもしれません。
 白共くんはとりあえず、頷きました。遅れて、他のみんなも頷きました。
「行くぞ」
 低い声で、促したのは相川くん。そして彼らは舞台のほうに向かっていきます。
 それを見送ってから、あたしはミズイちゃんに案内されてカメラの撮影ポイントに移動しました。観客席よりも前、舞台の壇のすぐ下の位置です。舞台の中央に向かって左側の位置から、カメラは軽音楽部のステージを映します。
 余計な演出はいりません。ただこれからの映像を記録に残しさえすればいいのです。逆に言えば、記録に残すのを失敗しちゃいけません。
 緊張の象徴のように、ごくりと自分が唾を飲み込む音を聞きながら、あたしは静かにカメラを構えて、始まりを待ちました。