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おんなのしんぶんかながわ | 女のしんぶん

 HP版 おんなのしんぶんかながわ 2007年1月

シリーズ 「戦争体験を語り継ぐ」 Part4

      生前の兵役体験の証言から

                           藤原 律子さん(横浜市瀬谷区) 

 夫は1939年(20才)あの赤紙で召集された。
 岐阜県各務原の航空隊に配属され間もなく中支(中国)に派遣されたようだ。
 父を17才で亡くし、長男として家族(4人)を養うため商工実習を中退し、石川島重工で航空機エンジンの整備工として働いていた。稼ぎ手をとられ母は落胆の様子だったが気丈にも、みんなで頑張るから心配しないでお国のためにしっかり働いてくるように、と、送り出してくれたのが逆に辛く悲しかったのを覚えていると。

 それから初年兵として苦しく厳しい軍隊生活が始まった。当時家族に内緒で社会運動の仲間と交流していたことがすでに上官に漏れていたのか、他の兵隊より生意気なヤツと、ひどく殴られたり進級も一番遅れていたと語る。朝5時起床、畳一畳大のベッドの寝具をアイロンをかけたようにきっちりと畳む。少しでもずれていると全部ひっくり返されやり直し、時間が遅れれば連帯責任をとらされ往復ビンタ。朝の点呼では軍務規律5か条を一人ひとりに暗唱させる。できないものが出るとこれも連帯責任で、兵隊同士向き合わせ殴らせる。加減したりすると見せしめのため気絶するまで徹底的にしごかれた。また性病や検便などの検診では全裸で並ばせ、軍医が手荒く次々とさばいていく。尊厳も人権もあったものではない。理不尽なこれらの行為に抗議することも許されない。空しさは本人でなければわからないと。

 二年間は地獄のような毎日だった。ある日中隊長に呼ばれ「お前はアカか」と突然聞かれ「そうではありません」と答えるとそれ以上深くは聞かれず帰された。どうなるのか心配していると進級の命令がおり、しっかりやるよう鼓舞された。階級が上がると同時に身の回りの世話をする部下がつき、新兵の時とは雲泥の待遇に驚かされ、権力の怖さを知った。戦況が悪化しだすと南支、北支、シンガポールなど転戦したが、幸いにも第一線には行かされなかった。理由は長男で母だけの家庭だったからだ。軍にも温情があったんだなあ・・・とつぶやいたが「それは甘い。国の産めよ増やせよの国策だったのよ」と私が言うと唖然としていた。
 
  また、いつも聞こう聞こうと思いながら聞いていないのが軍隊「慰安婦」のことだ。なかなか口が重く、ニュースなどきっかけにじわりと迫るがやっぱり堅い。やっとぽつり、ぽつりと話し出した内容は、部隊の中に慰安所をつくって強制的に女性を働かせていた噂は聞いていたが、自分は経験がない。毎月1回の休日には小遣いとコンドームを渡され外出していく。店には日本人と中国人の慰安婦がいて中国人をチャンピーと呼んで差別し、値段も安く買えたという。女たちは稼げるので兵隊たちが来る日を心待ちにしていたと話したそうだが、彼女たちの本心はどうだったのか?疑問に思えた。これは生理的な対策で、厳しい軍隊生活を管理するには必要なことと言いきる夫に、男の権力を垣間見た思いだった。でもやっとしゃべってくれたのでやんわり「女性からみると性を踏みにじる人権侵害で許せない」というと黙ってしまった。それ以上会話は続かなかった。
 
  ただ自分は戦争には反対だった。戦況悪化は負けを裏付けていると心の中でわかっていた。戦争で得るものは何もない。勝っても負けても大きな犠牲を被るのだから。現に仲間はほとんど死んでしまった。これまで80年以上も長生きできたのは戦友たちのおかげだ。いつも感謝し戦争のない社会、平和憲法を守る運動をやってきた。いま、戦争反対の勢力がどんどん弱くなり崩され、危機的な状況にあるのが心配だ。二度と子どもたちに自分の経験をさせてはならないと断言した。
 
  これまで夫の一貫した生活ぶりをみると、きれい事で言っているとは思われない。信頼できる言葉だと信じている。それは右も左もわからなかった私が政治や社会に目を見開かされた影響は、外ならず夫の感化だったと思っている。よくケンカもし夜中まで丁々発止と論争したことが昨日のことのように思い出される。
 また加害者か被害者かの問題では、最後まで自分たち兵隊は天皇の命令によりイヤでも戦争に加担させられた。加害者ではない。兵隊全員を加害者と決めつけるのはおかしい。最高責任者が現在も国民の税金をたくさん使って、のうのうと暮らしていること自体問題だ。持論を話し出したらもう止まらない。「その辺でストップ」私が立ち上がると憮然とした顔で湯呑みを口に運んだ。いまはもうそんなやりとりは望めない。
 
  2年前の11月20日、85才で入院4日で逝ってしまった。52年間の結婚生活の中で400日を超す労働争議(逮捕・裁判)は私にとって試練の体験だったが、また成長の過程でもあった。活動家だった夫とともに社民党と関わりI女性会議に運動の場を得たことは知らず間に影響を受けていたと感じる。よく一つ言うと三つも四つも返ってくる。初心に返れ。婦人会議に出して失敗だったと言っていたが、本当はその逆だったのではと思う場面が何回もあった。ずけずけと言いたいことを言ってストレスを発散していた私を受け止めてくれていたのだと、いなくなった今、実感している。ひとりになると生前思ってもみなかった、こんな筈ではなかったという思いに戸惑い、ぽっかりあいた穴を見つめている。精神的なショックがこんなに大きいとは想像もしていなかった。日柄が解決してくれるのでしょうか・・・。

 

 

 
 
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