おんなのしんぶんかながわ |
女のしんぶん
HP版 おんなのしんぶんかながわ
2006年8月
シリーズ 「戦争体験を語り継ぐ」 Part3
加藤 栄さん(横浜市旭区)
和歌山県西牟婁郡(山村)での戦争体験
◆戦前の教育について
1930年 小学校1年生 国語の教科書は『ハナ・ハト・マメ・マス』
1932年 2つ下の妹が1年生になる
国語の教科書は『サイタ サイタ サクラガ サイタ ススメ ススメ ヘイタイ ススメ』
にかわった。
1937年ころ 小学校5.6年のころ
修身の教科書に、お母さんが戦争へ行く息子に、天皇陛下の赤子として死んで帰って
こいと言っているような物語がのっていた。
『戦争に行ったら、白木の箱に入って帰ってこい』
広瀬中佐、東郷元帥、乃木大将のことがたくさんのっていた。
*教育が変わってきた。教科書が変わってきた。軍国教育になってきた。教科書は大切だった。
◆戦前の生活について
○日常物資が少なく、店そのものに品物がない。洋服を一枚買ってもらうのが大変なことだった。
○お米は配給。一日に3合だったのが、1合になった。お砂糖も食器もない。
○衣料切符制になったが、切符があっても物がなくなった。
○隣組に糸が一カセ。針もなくなった。
*10年戦争をすることは、こういうことかと思った。
◆戦中のようす
1941年〜1943年 青年学校教員養成所 寮生活 第1期生であった。
1944年〜1945年 代用教員。
<寮生活のころの思い出>
○灯火管制の中、かやの中にいたとき、1年生だからアイスクリームを買いに行かされた。みんなで
食べた思い出。 (本当は外に出てはいけないのに)
○男の人がいないので、田んぼの仕事で男性がやる仕事も女性がやるようになっていた。
○牛を使って田んぼを耕す講習会で、牛の鼻のかんぬきが抜けて手綱がとれ、牛が逃げてしまった
ことがある。その牛は借りものだし、捕らえなければならないができない、どうしよう、という思い出が
ある。最近までこの場面の夢をよくみていた。
○1クラス30人で炊事当番だったとき、大根1本で30人分の食事をつくらねばならなったことがある。
できたのはみそ汁。そんな生活だった。1食分で、さつまいも2切など 生活は耐久生活。
○「まける」「戦争はいやだ」とは思っても言えなかった。自由に言えない。上からの命令ばかり聞くこと
しかなかった。自分の判断力、批判力がなかったと思う。
○正規の授業で、なぎなた、竹槍、牛耕、担架訓練を行っていた。
○学校で炭焼きもした。
○国債を強制的に(隣り組)購入させられた。
○学問らしいことを学ぶことが少なかったので、その後、教育をやって(定年までやった人)骨がおれた
と話していた。
<代用教員になった頃>
○村の公民館や空き屋を借りて教育をした。男の子(男子組)は軍事訓練 担当は男の先生。
女の子(女子組)は家庭科、担当は女の先生。
男の子には軍事教練をすると、兵隊になったとき扱われ方が良い。
○戦争は負けると感じていたが、そんなことは話せないし話すことはなかった。特別訓練の時、
負けるという言葉がつぶやかれた。
◆戦後のこと
1945年8月16日、山村なので新聞は1日遅れで届いた。ラシオもなかったのでこの日に敗戦を知った。
○おばあさんは『銀飯で祝おう』と言った。敗けたらみんな泣いているのに、へんなことを言うなと
思った。
○先生の信用はゼロ。職員室は陰気なムード。いやだった。
○戦争に行った人は、すぐには教員に復帰できなかった。
*戦争を体験して思うことは、物資、食料の不足。二度と戦争をおこさせない。
戦争とは破壊である。
聞き取り調査によりまとめました。
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