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おんなのしんぶんかながわ | 女のしんぶん

 HP版 おんなのしんぶんかながわ 2006年7月

シリーズ 「戦争体験を語り継ぐ」 Part2

                           平岡 典子さん(海老名市) 

 1937年7月7日、小学校1年の時、日中戦争が始まりました(当時は支那事変と言った)。私の戦争の記憶の始まりです。

戦争中の様子:暮らし
 税金は戦費に費やされ庶民はつつましい生活でした。親は休みもなしに働きました。窓ガラスには紙テープを貼って爆弾でガラスが飛び散らないようにしました。家の雨漏りは当たり前、修理も出来ず我慢しました。防空演習はしばしば行われ、バケツリレーなどをやっていました。あとで本当の空襲が来たら何も役立たず。小学校に上がったころから菓子屋にお菓子がだんだん減り、ついに無くなりました。砂糖は兵隊にと言われていました。
 配給制度がありました。主食(配給手帳があって)は米麦、小麦粉、いも類、雑穀類。割当てがあって、自由に買えなくなりました。衣料(衣料切符がありました)は木綿や絹、ウールはだんだん買えなくなり、スフという人造繊維になりました。
サツマイモやかぼちゃを買いに農村へ行きました。子どもにはリュックサックが重かった記憶があります。でも多摩川の桃、善福寺池で冷やしたトマトがおいしかった。
 食事は、毎日、大根や野菜を入れた「おじや」。お弁当はふすまと小麦粉半々位のお焼きのようなもの、大根飯、おかずは昆布の佃煮、そんなようなものでした。
 遊びは、石蹴り、カンけり、ゴム跳び、まりつき、お手玉、生け垣の葉っぱの遊びでした。
 学校の教科書は国定教科書で、小学一年の国語は「サイタ サイタ サクラガサイタ」「ススメ ススメ ヘイタイススメ」。小学五年生から歴史がありました。「国史」と言いました。代々の天皇の名前を暗唱させられました。忠臣は「楠木正成」「和気清麻呂」逆賊は「足利尊氏」「弓削の道鏡」。女学校(中学校と高校)では英語は敵国語だから教えてはいけないという通達があって廃止されました。体育はなぎなた、そのほかは畑で芋つくり。
 学校では戦地の兵隊さんへの慰問文や慰問袋を出しました。そのうち級友のお父さんから返事が来ました。その人は戦死しました。非国民という言葉が連発されました。父が戦死して泣いたら「非国民」、空襲で焼けて逃げてきたら「非国民」、天皇の写真や日の丸の載った新聞はおろそかに扱えませんでした。学校では先生の怒号とビンタは日常茶飯事になりました。歌も軍歌一色になりました。子ども向けにも「勝ち抜く僕ら少国民 天皇陛下のおん為に 死ぬと教えた父母の 熱い血潮を・・・・」のような歌がありました。学徒動員は中学校2年3学期から京浜工業地帯の工場へ派遣され部品磨きをさせられました。
 サイパン島が陥落し空襲の危険がせまり3月に福島の親類へ疎開しました。仙台西公園下の古い家を求め、一家が疎開しました。学校は編入手続き。

度重なる空襲にあう
 4月15日、横浜市鶴見の家が空襲で全焼、近所の山田さんは防空壕の中で一家全滅。仙台へ行って落ち着くまもなく7月9日の仙台空襲で再び焼け出されました。日常的に何時も寝るときでも逃げられる服装をしていました。当時の空襲の実態はアメリカが民間の市街地にじゅうたん爆撃を仕掛けていました。
 7月9日夜、父母は横浜市鶴見に帰っていましたので、その晩は私と小6の弟と姉だけでした。
ザアザアと小石が落ちてくるような音がだんだん大きく近づいてきたので、かねてより打ち合わせしてあった場所の広瀬川にかかる大橋を渡って対岸の広大な陸軍練兵場に弟と二人で先ず逃げました。弟と二人布団をかぶり荷物は背中のランドセル、中身は写真のアルバムと石鹸、タオル、文房具だけでした。
 間断なく頭上から降り注ぐ焼夷弾ですでに路上や付近の家が燃え出している中を走って橋を渡ると消防団らしき人がバケツで火を消そうとしていました。
 橋を渡り練兵場から2メートルくらいの高さの崖を飛び降りて河畔の崖の陰に皆が体を沿う様にして身を潜ませました。対岸の我が家の方面は炎で真っ赤で焼夷弾は繰り返し川面にザアーと音をたてて一列に落とされ、川と崖との間の狭い川原にも炸裂しました。頭上に落ちればそれまでのこと。
 ふと見ると練兵場を火達磨になって人がかけて来るのです。全身炎に包まれて、これこそ不動明王の様だと恐怖の中で思ったものでした。夜が白々と明けやっと終わった空襲の夜でした。勿論家は全焼、現実起きたことが不思議で信じられませんでした。市内は怪我人や行き倒れた人が路上いたるところに見られて、中には親にはぐれたのでしょうか防空頭巾をかぶった幼い女の子がうつぶせに倒れていて恐怖に麻痺している私の心にも印象が強かったことを覚えています。
 1週間ほど親類の家にいて東京の叔父の家に移りました。

敗戦
 8月15日は東京杉並の叔父の家で迎えました。その日叔父は勤務から帰ってくるなり電灯を覆っていた黒い布を、怒りをもって引き剥がしました。明るくなった室内に何ともいえぬ安堵感を覚えました。――空襲のない安心感、空は青く、マクワウリをおいしく感じました。
 9月、茨城県古河の母の実家に行きました。ここで裁縫を習い、食べたのはサイツマイモ農林一号、大変おいしかったです。
 11月横浜市鶴見に家を買いました。元の学区へ手続きに行くと、練習らしく音楽祭の「流浪の民」のコーラスが美しく聞こえました。焼けた学校は80人学級小さい黒板、でも自由に行われた歴史の授業が楽しく感じられました。

 

 
 
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