おんなのしんぶんかながわ |
女のしんぶん
HP版 おんなのしんぶんかながわ
2006年5月
シリーズ 「戦争体験を語り継ぐ」
14才の心の傷はいまも疼く「戦争」は絶対に許さない! 横浜大空襲
藤 原 律 子さん(瀬谷区)
1931年横浜市神奈川区(現西区)浅間町で鉄工所経営の家庭に六人姉妹の四女として生まれる。母は仕事と子育てを両立させながら忙しい毎日を送っていたが、やがて家族は戦争の渦の中に巻き込まれていく。
時は満州事変勃発で、軍需産業が伸び経済的に恵まれていたような気がする。小学校時代の教育といえば毎日教育勅語の唱和から始まり、徹底した軍国主義の思想をうえつける教育により、軍国少女はつくりあげられていったように思われる。1クラス50人以上で4クラスあり、午前と午後の二部授業になっていた。教師も多かったようだが代用教員といった若い女性の先生が多かった。
食糧も不足し闇が横行、大家族の日常生活は大変だった。インフレによりお金よりも貴金属や高価な品物が貴重で、農家に持っていっては物々交換で飢えを凌ぐありさまだった。タンスの中はみるみる空っぽになり母は淋しそうにのぞきこんでいた。買い出だしは八王子線(現在の横浜線)の橋本辺りや、相模鉄道(当時神中線といって砂利を運び大きく我々の生活に寄与していた)の沿線の農家に足を運んだ。リュックの重さが思い出される。
1945年5月29日横浜大空襲の日のことだ。この時14才で女学校1年生の春だった。この空襲で生涯忘れ得ぬ悲しい体験を味わう。家は妙蓮寺(東横線沿線)学校は山手の丘の上にあった。この日は朝からいつもと少し違っていた。10時過ぎ警戒警報のサイレンが鳴ったあと、追いかけるように空襲警報が発令された。学校はすぐ生徒に帰宅をうながした。市電で桜木町まで来ると東横線は止まっていた。とりあえず浅間町の叔母の家に向かう。しかし家は留守、聞くと浅間神社の山の横穴式の防空壕に避難しているとのことだった。その矢先、上空を見上げるとB29の編隊が不気味な轟音で迫ってくる。青空が急に機影でまっくらになった。同時に焼夷弾が雨あられと降りかかり、あたり一面に黒い油が流れ出し炎が野火のように広がっていく。炎は逃げまどう人たちの行く手を阻んでいく。その時、片山さんのおばあさんが腰を抜かしてしゃがみこんでいた。腕を支えながら、防火用水の水を頭からかぶりながら炎を防ぐ。みんなからどんどん遅れていくのにあせっているが、どうにもならない。その時2、3m先にいた男の子(知人)に焼夷弾が直撃し右足がぽーんと吹っ飛んだ。彼は2、3歩はねてから、くずれ折れるように倒れた。自分たちのことで精いっぱいの私は、助けることもせず見捨てていった。60年経った今も、心の中に自責の念と痛みとなって残っている。その日、焼け残った家の軒先で一夜を明かし、叔母のいる防空壕を訪ねた。中はごった返し負傷者であふれていた。安否を確認し、急いで家路に向かう。
見渡す限り焼野原の中に、黒い物体がいくつも重なりあっていた。それは遺体というよりは、黒こげの電信柱のようで臆病な私にも何とか耐えることができた。実家のある妙蓮寺のあたりは被害を免れていた。真っ黒けの顔をした幽霊のような私を見て、家族はただただ涙で抱きかかえ奇跡を喜んだ。全身から力が抜けていくのを感じた。
私の心の奥に凍てついていた戦争体験を話してみようと思ったきっかけは、もう20年位前に日本婦人会議(現女性会議)瀬谷支部が地域の教研集会に参加した時のこと。分科会で「戦争体験を語り継ごう」をテーマに東京大空襲(3月10日)のスライドを見て話し合った。今は亡き渡辺道子さんから戦争中の激動の体験をお聞きし目を見開かされた。その時私の中で凍てついていた重い課題を、勇気を出して話してみようという決心がわいた。とぎれとぎれの下手な発言だったが、体験は伝わったようだ。戦争絶対反対の行動とメッセージを送り続けよう。それからは子どもや孫たちにも機会をとらえ話しているが、まだ充分とはいえない。もっともっと大勢の人たちにも語りかけていかなければと思っている。
いま平和憲法を改悪し、戦争のできる国にしようとする小泉内閣の悪政に鉄槌を下すべく、全力で闘う。私の使命でもあると思う。将来をになう子どもたちに平和憲法を手渡すためにも・・・
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