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昭和44年に小原銀之助が製作した日時計を再建しました。

明治33年に渟城尋常高等小学校を卒業した、歌人でジャーナリストの安成二郎の歌がついた日時計。
長い年月ですっかり痛んでしまいましたが、二郎のお孫さんをはじめ、たくさんの方々の熱意により再建されました。


 



能代「日時計歌碑」雑感

小原輝子

 私の手元に、昭和44年に日時計を設置した父の薄いノートがあります。表紙の色は古びて変色し、角は折れていますが父の足跡が見えてきます。


 「安成二郎記念日時計」は「安成二郎翁」と書き直し「翁」にバツをつけて「先生」と変えてあり、「校長・杉山庄蔵、教頭・須田」そして「北羽新報社・越後昌二氏」など大事な方々のお名前が記録してあります。


 そのころは、まぶしい青春時代だった私、能代の日時計について覚えていることは少ないのですが、「安成二郎」のお名前は自宅に何度も届くはがきや封書で見知っていました。

 二郎様は、父が百科事典を編集していた平凡社時代から尊敬している先輩だと聞いています。けれどまさか、日時計を通して安成梛子さんと私が、今のように知り合うとは考えませんでした。「思ってもいなかった」と言ってしまうにはもったいない出会いです。


 当時の関係者が気持ちを込めた日時計歌碑、痛んだままでは何よりも悲しくまた危険です。この度、校名は変わっても同じ場所に作り直すことが出来ました。


 今回も、多数の人のご好意で完成した、それが大変うれしく渟城西小学校の日時計は幸せです。

 旧台座の上の部分を支えていた柱は、みかげ石で組み立てた今の台座内に残しました。

 このことは「過去を包み込んで未来に伝える」…日時計歌碑を、能代の皆様で未来に伝えていただきたい気持ちを込めてあります。以前の台座をすべて壊し、ガレキとして捨てるのは簡単ですが、それではゴミになるだけ、見えなくても残せば記念品だとおもいます。

 日時計は、約4千年前のエジプトで発明され、ギリシャ時代からヨーロッパへと発展し「時を知る道具」すなわち「時計」として使われました。

 ここの日時計は設置場所の緯度経度に合わせて精密に設計製作してあります。低学年には難しいかも知れませんが、3年生の理科で学習する「太陽と影」やグラフの見方・引き算など学年が上がると解ってきます。日時計に接しながらたくさんのことを感じ、国語では郷土の有名な歌人・安成二郎先輩のように短歌を詠み、図工では日時計を写生してください。

 日時計と仲良しになって、利用してくださるようにお願いします。

 

能城と安成二郎と小原銀之助

安成椰子

 昭和44年(1969)12月、すでに高齢で、引き篭もりがちだった祖父安成二郎が、能代に行ったと聞いて、びっくりしましたが、後にその日時計は小原銀之助氏が製作し祖父の歌を刻んで、出身校に寄贈したものだ、と聞いて大いに納得したことを、覚えています。

 大らかで明るく楽しい小原さんは、祖父を訪ねてくるお客さまのなかでも異色でした。50歳をすぎて、独学で日時計づくりに挑戦し、世界一の日時計作家になった偉い人だと、我が家では、皆の尊敬を集めていました。

 最晩年になって実現したこの郷里・能代への旅で、小学校の寄贈式のあと、米代川に架かる橋から、子供時代を過ごした向能代の東雲台地を眺める祖父の姿と俳句の師・島田五空の句碑の前に立つ祖父の姿が写真に残っています。次の年に生誕の地の阿仁合に代表作「豊葦原瑞穂の国に生まれ来て/米が喰へぬとは嘘のよな話」の歌碑が建ったときには、もはや訪郷できなかったのですから、祖父にとって、これが最後の郷里への旅でした。

 戦後、阿佐ヶ谷に再び越して来た後の祖父は、本で埋まった六畳の書斎に篭もり、時折、同人誌に投稿する以外、目立った活動はせず、時々誰かをたずね、時々親しいお客さまが来るといった静かな生活でした。

 その祖父が、訪能代後の最晩年になって、人物集「花万朶」、関東大震災時の大杉栄事件をまとめた「無政府地獄」とたて続けに本を出しました。兄貞雄時代からの友人、荒畑寒村が序文で「少し先を急ぎすぎるようだ」と心配したとおり、その半年後に87歳の生涯を閉じました。今になってみると、ジャーナリストとして、書き残して置きたかった本が、母校の日時計をキッカケに実現したようです。歌の通り、いくつになっても、老人になっても、学ばねばならないと、小原さんにならって、奮起したのでしょうか。

 今回の痛んだ日時計の再建は、港町や漁村に小原式日時計の設置を進めていた水産の仲間たちのおかげで、お父上を継いで日時計作家となった小原輝子さんと思いがけなく出会い、能代では、日時計を見守っていた越後美緒子さんとの出会いがあるという、多くの暖かい友人の輪が広がっていって実現しました。

 この小学校に学ぶ子供たちが、この世界に一つしかない日時計と歌が語るさまざまな物語に、」耳を傾け、自分たちの物語につなげて欲しいと願っています。


(平成23年7月21日 日時計歌碑除幕式パンフレットより)