映画「叛乱」に見るスタートレック・マインド
スタートレック私論
STをずっと見ていると、作品の底に流れる精神を感じます。まさにSTマインドとでも呼びたくなるようなものがあります。それについて、私の考えをここに、主にこの春日本公開された映画「スタートレック/叛乱」を例に書き留めておきたいと思います。
STマインドには、3つあるように思います。
1つめは、常に希望を持ち、知的好奇心にあふれていることです。
TOS・TNGのオープニングのナレーションにもあるように、STは人類未踏の地に勇敢に航海する物語であり、何かから逃げる話ではありません。困難に立ち向かい知恵と勇気で克服していく話です。
よくファンの声として、「STには夢がある」とか「STで描かれる未来は明るい」とか言われます。エピソード自体はけっして明るいものばかりではありませんが、ST全体としては、明るい展望に立った描き方をしています。だからこそ、私たちはSTを見て、登場するキャラクターのように強く前向きに生きようと思うのです。STにあこがれて宇宙飛行士になった女性もいましたが、彼女はその一例でしょう。
知的好奇心にあふれているというのは、登場人物のことでもありますが、作品自体の作風でもあります。スタートレックはSFであり、つまりサイエンス・フィクション(空想科学小説。映像作品なので空想科学ドラマといった方がよいかもしれません)なのです。科学に基づいたドラマなのです。これは、STの生みの親、故ジーン・ロッデンベリー氏の考えでもあります。
STは、ファンタジーでもホラーでもありません。エピソードによっては、ファンタジーっぽいものやホラーっぽいものもありますが、基本的には科学的にドラマを描こうとしています。
「叛乱」では、どうでしょうか?いつものクルーが、バクーのため、正義のために、目の前の問題から逃げることなく、敢然と立ち向かっていきます。もちろん、アニージの不思議な力を除けばファンタジーではありませんし、ソーナ人の顔と提督への残虐行為が恐いといってもホラーではないことは明らかです。
STマインドの2つめは、人権を尊重し、民主主義にのっとっているということです。
これは、STの多様性のページの「キャラクターの多様性」でも書きましたが、STでは、互いの存在を尊重しようという考え方が、作品の根底にあります。それは、多くの人種・民族がすむアメリカのTV作品ならではでしょうが、アメリカの他のSFドラマと比べてもSTは特にその傾向が強いように思います。
ピカードは「新たなる旅路」(TNG#170)でドーバン5号星に住むネイティブ・アメリカンの子孫を他の星に移住させる命令を上官から受けますが、彼らの立場を尊重するが故に、その任務には後ろめたいものを感じています。また、「ボーグ“ナンバー・スリー”」(TNG#121)では、自我に目覚めたボーグに対し、その存在を尊重して、コンピューター・ウイルスを埋め込むのを中止します。また、ピカード自身が過ちを犯しそうになることもあります。「宇宙孤児ジョノ」(TNG#75)がそうで、彼は少年のことを思うがために、逆に少年の気持ちをないがしろにしてしまいそうになります。
「叛乱」については言うまでもないでしょう。バクーの人々を惑星から強制的に移住させようとするソーナ人やドワティ提督に対し、バクーの人々を守るため奮闘したわけですから。それはもちろん自分たちのためではなく、人権を侵そうとする者達に対する怒りと正義感から起こした行動に他なりません。今回のピカードらのとった行動は、連邦の最優先事項の理念に基づいたものであり、STの精神そのものです。
加えて言えば、ドワティ提督のとった行動もこの精神に多少沿ったものと言えなくもありません。もし彼がいなかったら、ル・アフォはバクーの人々に対する恨みからその強力な兵器で彼らを皆殺しにすることもいとわなかったでしょうし、インジェクターを使ってメタフェイズ放射線を吸収することにより、バクーの人々の命が危険にさらされても、何の後ろめたさも感じなかったでしょう。そういう意味では、ホロシップによる強制移住とはいえ、少なくともバクーの人々の命を守ろうとしたドワテイ提督の行為は評価されるべきです。
また、ラストでピカードの計らいにより、ガラティンが母親の元に戻りますが、たとえ悪事の片棒を担いでいたとしてもその存在までを否定してはならないという考えがこのシーンには表れているように思います。思えば、ル・アフォの部下たちは皆生き残ったわけですし、カットシーンには、崖から落ちるソーナ人をデイタが助けるシーンもありました。(また、ノベライズ本では、科学調査船内でのピカードとル・アフォの攻防のシーンで、ピカードがル・アフォを助けようとさえします。)
STマインドの3つめは、単純な「善対悪」という構図をとらないということです。
実際世の中に全く善である人間もおらず、全く悪である人間もいません。正義感の塊のような人でも時には過ちを犯すこともありますし、悪事を働いてばかりいるような人でも、そうなるにはそれなりの理由があるものですし(だからと言ってその行為が許されるものではありませんが)、時には芥川龍之介の「くもの糸」のごとく良いことをすることもあります。
ところが、いわゆる「SFドラマ」の世界になると、とかく正義が悪に打ち勝つという構図がとられます。(私は、そんなものSFではないと思っています。)邪悪な宇宙人・凶悪な宇宙怪獣は倒されて当然と言った感があります。
しかし、STは違います。一見連邦が善で、クリンゴン・ロミュラン・カーデシア等が悪のような印象を受けますが、ピカードたちも過ちを犯すことがありますし、連邦の提督たちの過ちをピカードやシスコが正したことが何回もあります。一方で、TOS時代には敵対していたクリンゴン帝国と一時期和解して同盟関係になったこともありますし、ロミュランやカーデシアの中にも、政府の方針に異議を唱える者がいます。(TNG#138「ロミュラン帝国亡命作戦」,DS9#18「謎のカーデシア星人」等)
映画「ST4:故郷への長い道」で地球に損害をもたらした巨大な物体もただクジラと話をしに来ただけですし、「ST6:未知の世界」でカートライト長官らが企てた陰謀も連邦の将来を案じての行為でした。「ST7:ジェネレーションズ」のソランがとった行動はまちがっていたとはいえ、ネクサスに行きたいという気持ちには共感できるという方は多いと思います。
「叛乱」におけるドワティ提督の行為も、問題があったとはいえ、ドミニオンに対抗するためにソーナ人の協力が必要だったわけですし、彼自身ル・アフォにだまされていたわけで、同情できる点もあります。また、ソーナ人ももともと科学に興味を抱いてバクーを追放されたのがきっかけでバクーの人々を恨むようになったわけで、なんだか社会からつまはじきにされた非行少年のようで、行為そのものは問題としても、単純に「悪」と決めつけられないものがあります。
映画「叛乱」を見て、ロッデンベリー氏が築いたSTの世界は、時代や背景・キャラクターが変わっても、その精神は確実に受け継がれているのだとの感を強く持ちました。
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