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階段を下りて行くと、いつもは客や従業員で騒がしい湯屋は、
シーンと静まりかえっていた。
誰も居ない。
とは言ってもやはり、腹掛け姿は恥ずかしい。
背中は丸見えだし、肩も露出している。
とりあえず髪をおろして隠してはいたが、
無いはずの視線を感じるようで、そっと我が身を抱いた。
恥ずかしさだけでなく、
暗くガランとした廊下を歩いていると、
どこかうそら寒く感じる。
(早く行こう)
廊下を小走りで駆け抜け、その先にある階段を上る。
きぃきぃときしむ音に合わせて、心臓も鼓動を刻んだ。
上までのぼりきると、キョロキョロとあたりを窺う。とりあえず誰もいない。
途中、見回りの兄役を物陰に隠れてやり過ごして、
とうとう辿り着いた。
トントン
遠慮がちにだが、すぐさま扉を叩く。
躊躇っている暇はない。
いつ人が通りかかるか分からないのだ。
そんな中、ハクの部屋の前でこんな格好で立っているのを見つけられたくない。
「ハク…いる?」
おずおずと中へ声を掛ける。返事は無い。
(寝ちゃったのかな?)
そわそわと辺りを見渡し、再び、今度は少し強めに扉を叩いた。
「お入り」
やっと部屋の主が答える。
千尋は逃げ込むように、慌てて中へと入った。
後ろ手で扉を閉め、それを背にしたままその場で立ち尽くす。
中は思ったよりも暗い。
部屋の隅の行灯だけが光源のようだ。
その横には経机が置かれて、ほっそりとした青年が、
こちらに背を向けて座している。
腰を僅かに越える髪は、畳の上に放射状に広がっていた。
(お仕事中……?)
何か書き物をしているらしく、右手が動きさらさらと音がしている。
声を掛けることができず、立ったまま青年の後姿を見つめた。
(キレイ……)
行灯の薄明かりの中、妖しげに黒髪が流れ、
しかし美しいと感じさせた。
(そんなところにいないで、こっちにおいで)
ぽーっと見とれていると、くすくすと涼しい音を立てて笑いハクが振り返る。
「あっ…うん」
突然声を掛けられて驚くが、そういわれてすごく嬉しくて、すぐに一歩踏み出した。
しかし、また立ち止まってしまう。自分の姿を思い出したからだ。
「どうしたの?」
光の中に踏み込むことができず恥らう少女を見て、
何かを含みながらもそう優しく言う。
「早くおいで」
呪文のような言葉に自然と足が動き出す。
これは本当に呪文なのかもしれない。
唯一自分の意思下にある腕で我が身を抱き、薄明かりの中に姿をさらした。
「こちらへ」
少女の姿を見ても、ハクは驚くどころか
反応らしい反応も見せず、いつもの笑みを浮かべている。
まるで彼女が、その姿で来ることを知っていたかのようだ。
否、知っていたのだ。全てはリンという存在。
リンは思うようにハクの手の上で踊ってくれた。
リンは怒気を逆撫でられ、なんとしても千尋をハクに会わせないようにする。
けれど、千尋は少しくらい上から押さえ込まれてもへこたれたり、
泣き寝入りするような子ではない。必ずここに来る。
そして押さえ込まれた分、自分に対する想いは強くなり、
会ったときの喜びを万倍にしてくれる。
全てハクの思惑通り。リンが行かせまいとして、
水干の上着を取り上げるのも予測がついていた。
「そんな格好で、私になんの用?」
悪戯っぽく笑って問うと、
千尋は羞恥心で頬を赤く染める。
「私っ、ハクとお話がしたかったの」
「話?」
ちょこんと目の前に座った少女を、
少し首を傾げて見つめる。さらり、と肩の上を黒髪が流れて行った。
「何の話?」
その様子をうっとりと眺めていた千尋を、目を細めて見つめ続けた。
千尋は彼の視線に気付き、はっとする。
その視線は露になった肩や腕に絡みつくようで、なんとも恥ずかしかった。
「え…えっと……」
口篭もり、わずかに逡巡して当初の目的を思い出す。
(プレゼント…)
そして改めて、真っ直ぐな視線でハクを見た。
美しく整った顔は繊細な造りで、女の人のようである。
光の加減によっては緑色にも見える瞳は瑪瑙のよう。
不思議に妖しく煌き、しかし真っ直ぐとこちらを見つめていた。
通った鼻筋のその下に位置する薄い唇は、
穏やかな笑みの形を作っている。
ほっそりとした身体には白い狩衣を纏い、
悠然とした態度で座していた。
(……わかんない)
観察していたのに、いつの間にか見とれていたことに気付き、我に返る。
しかし、穴が開くほど眺め見ても、ヒントを得る事はできなかった。
(どうしよう)
次に彼女を襲ったのは焦り、そして緊張。
ヒントを得たとしても、得なかったとしても、
その後のことを千尋はまったく考えていなかったのだ。
ここはハクの部屋。そして自分はこんな格好でいる。
狼の巣へ放り込まれた羊のようなものだ。
(今更こんなことに気付くなんて……!!!!!)
千尋は思わず身体を硬くする。
ハクは優しい、優しいけれど……。
「言えないような話?」
自分の考え足らずをもんもんと責めていると、
はっとするほど艶やかな声で、彼が言葉を紡いだ。
「あ…あのっ、その……」
逃げ出すこともできずに座ったままでいる少女の手に、
ハクは自分の手を重ね、優しく握った。
その優しすぎる手つきに、
少女は思わず身を引く。が……。
「ひゃっ!」
身を引いた瞬間、それを待っていたとばかりにハクは膝立ちになり、
あっという間にか細い身体を押し倒してしまった。
肩を押さえつけ覗き込んでくる美しい顔。
どきどきと胸が高鳴り、つかまれた肩と腕が熱い。
「ハ、ハクっ」
「そなたは無防備すぎる」
くすっと笑って、身体を屈めてくる。
つやつやとした、絹糸のような黒髪が、
数房ずつまるで紗のカーテンのように、千尋の身体を覆い隠した。
(綺麗)
彼の顔が近付いてくる。
(こんなに長くてサラサラ…。手入れとか大変だろうな……)
そんなこと考えている場合ではないのに、
いつも切羽詰った、こういう時に限ってあまり関係ないことを考えてしまう。
そうっやて思考が奪われ、彼の為すがままになってしまうのだ。
いつもだったら―――。
(髪……?)
閉じかけた目をぱちりと見開き、
今にも唇を塞ごうとしているハクを見た。
突然、現実世界に戻った千尋を見て、ハクは驚いた。
もうそれ以上進めなくなってしまう。
「髪ーーーーーーーっ!!!!!!」
いきなり大声を上げると、千尋はがばっと勢い良く身を起こした。
がつっ、と鈍い音がして、少女の頭部が顎にヒットし、ハクはのけぞった。
「ごめんっ、ハク。私、帰んなきゃ!」
これまた唐突な宣言だった。
「ち…千尋?!」
痛みで目を白黒させていたハクは、まだ痛む顎を押さえたまま、
狼狽の声を上げる。
彼にしては珍しいことだった。
「本当ごめんっ!でもすぐこっちに来るから!」
伸ばした青年の手からすり抜け、
千尋はどこか嬉しそうに彼の部屋を去っていく。
(そうよ、髪よ!何で気付かなかったんだろう)
ずっとわからなかった数学の問題の答えが、
やっと導き出された時のような興奮と爽快感。
鼻歌交じりで、飛び跳ねるようにしながら、
千尋は階段を下りて行った。
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