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 ハクは、千尋の世界と不思議の世界とを行ったり来たりしている。


 湯婆婆との契約から解放されたものの、 湯屋にアルバイトとして狩り出された千尋と共に過ごすため(守るためとも言う)、 彼女が不思議の世界へと行く時期には、彼も舞い戻っていた。
 湯婆婆はこの青年の存在を、暗黙のうちに了承している。 彼の仕事振りも知っているし、 別段、損にはならないだろうと踏んでいるからだ。

 それ以外、つまり千尋の世界にいるときは、同じ学校で過ごしていた。
 初めて、制服を着た彼が目の前に現れた時、 とても驚いたことを覚えている。
 「まじない」を使ってその存在を誤魔化し、生徒に成済まして校内を闊歩しているのを よく見かけた。



 そして今、彼は不思議の世界にいる。
 千尋はクリスマスプレゼントのヒントを求め、 いつものようにトンネルを潜り、再びこの世界へとやってきた。
 草原が広がる。 風がまるで、大きくて長い腕が草を撫でるように駆け抜け、 青い空にもくもくとわいて来る、白く巨大な雲を吹き飛ばしていく。
 すうっと深く息を吸い込み、心地よい空気を身体の中でも感じ、 静かに吐き出すと湯屋を目指して歩き始めた。





「センーーーー!!!久しぶりだなぁ!!!!」

 ボイラー室を通り、釜爺とススワタリに挨拶をして従業員の部屋を訪れると、 がばぁっとリンが抱きついてきて、熱い歓迎を受けた。

「リンさんっ!お久しぶりです」
「4ヵ月ぶりか〜?元気にやってたのか??」

 背をバシバシと叩いてから、両肩を掴んで心底嬉しそうに語りかけてくる リンの勢いに圧されながらも、千尋も喜びの笑みでそれに応えた。

「うん!リンさんも元気そうで」
「それがね〜、センがいないと、もう恐いくらい静かなのよ!」

 と、後ろで髪を梳いている同僚が口を挟んでくる。

「黙れ!」

 照れ隠しに一喝すると、ぽりぽりと頭を掻いてから千尋に向き直った。

「んなことよりっ、仕事に行けるんだろ?」

 後ろのいくつかの笑い声を聞きながら、千尋は頷く。

「じゃあ、さっさと用意しろよっ。オレは先に行ってっからさ」

 はい、という返事を聞くと、笑い声に追い立てられるように、 そそくさと部屋を出て行ってしまう。 その際、同僚達を睨みつけるあたりが、 かろうじて、リンらしさを取り持った行動だった。
 リンが出て行った後も笑い声は止まらず、 それどころか先程より大きくなっている。
 千尋もつられて口許に笑みを浮かべながら水干に着替え始めた。




 帳面に目を通していたハクが、ふいに頭を上げて虚空を見つめた。

「どうしました?ハク様」

 帳簿を整理していた蛙男が、何事かと問いかける。

「いや……、何でもない」

 柔らかい視線で虚空を見つめたまま、口許をやはり柔らかい笑みの形にして答えた。 こんなやさしい顔をするなど、三年に一度あるかないか。 千尋の前での彼を知らない蛙男たちにとって、横顔とは言えそれを見るのは奇跡に近かった。

「倉庫の帳簿をとってくれ」

 そう言って視線を向けたときその表情は掻き消え、 こちらの世界でのいつもの顔、氷の仮面をかぶった冷たく鋭いものであった。

(来たね、千尋)

 幻を見たのかと目をしきりに擦っていた蛙男から帳簿を受け取ると、 涼しい瞳でそれを見やる。
 しかし、外見とはうらはらに、彼の内面には温かいもので満たされていた。




 (ハク……どこにいるんだろう)

 雑巾がけをしながら、時々周囲を盗み見る。
 いつもだったら監督にかこつけて(実際、監督をしているが)、 千尋を見に来ている竜の青年が近くにいるはずなのだが……。 今日はどうしたことか見当たらない。

(うーん…、仕事終わった後じゃないと会えないかな…)

 一往復を終え、雑巾を裏返してまた駆け出す。さすがに慣れたもので、 他の同僚達に遅れはとらない。

(できれば……約束をしておきたかったんだけど)

 通い慣れているハクの部屋。 けれど前約束無しに訪れるのはさすがに気が引けた。

(恥ずかしいんだけどなぁ……)

 うんうんと唸りながら、もう一往復しようと床を蹴った時……。

「セーーーーーーン!!!!!!」

 突然の怒声に、びくっと体が跳ね上がり、 その場で滑って転んでしまう。したたか擦った膝を見てから背後を振り返ると、 そこにはリンの姿。腰に手を当て、仁王立ちをしてこちらを睨んでいた。

「さっきから呼んでるのに……。そこは拭き終わってるよっ!!」

 まなじりを吊り上げ、座り込んだままの千尋に歩み寄る。

「次は廊下だよ!」
「あ…、ごめんなさい」

 立ち上がり頭を下げて謝ると、リンの態度は幾分か軟化した。

「なんかあったのか?考え事してたみたいだけど」

 腰に当てていた手の内、片手だけを下ろして、千尋を覗き込んだ。
 水をはった桶を持ち上げながら、千尋は「ウン……」と力なく返事をする。

「力になるぞ?オレに何でも話せ」

 力強い言葉。これ以上に頼りになる言葉を、千尋は聞いたことが無かった。
 にっこり笑ってから「ありがとう」と答えると、少し考え込む素振りを見せる。

「ハクが、どこにいるか知ってる?」

 しばらくしてからの質問に、ぴきっと頭のどこかが鳴るのを、 リンは聞いたような気がした。

「話がね、あったんだけど……。見つからなくて」

 あのかわいらしい少女が、一人前の「女」の雰囲気を醸し出して、切なげに呟いている。
 娘の突然の変貌に驚くような、またその変貌の元凶である男を憎むような、 父親の心境に似た気持ちを抱えて、ぎゅっと握りこぶしを作った。

「知らねぇよ」

 知ってはいたものの、教えるのは面白くない。 居場所を知ったら、そこに行くだろう。まるで飼い主を無邪気に追いかける子犬のように。 それが気に入らない。 しかもこみ上げてくる怒りもあって、けれどそれらを全て隠して素っ気無く答えた。
 しかし、正直なところのあるリンは良心が痛むらしく、 そう言った時の視線はあらぬ方へと向けられていた。

「そっかぁ……、ありがとう、リンさん」

 目ざとい者だったら、不自然な態度に疑問を抱くところであったが、 千尋は心の底から礼を述べて、明るく微笑んだ。

(これだよ、これ!!オレの千尋はこうじゃなきゃ!!!)

 いつから自分のものになったのか、というツッコミは置いといて、 別の意味で拳を握り締めるリン。
 けれど、千尋をだましたことに、また、明るく微笑んでみせるが無理しているらしい表情の蔭り などを見ると、良心は未だにズキズキと痛んでいた。

(くっそ……しゃぁねぇな)

 廊下の雑巾がけを始めた少女を見やって、深い溜息を吐いた。 少女の落胆を見ると、やはり忍びない。つくづく自分は千尋に甘いような気がした。
 二人が会うのは面白くない。
 できれば可愛い妹分をあの冷血、スケベ白竜に会わせたくなかった。 特に二人きりで。そんなことしたら、竜の青年に何をされるか分かったものではない。
 しかし、この自分の中に生まれたわだかまりをどうにかしたい。 身から出た錆とは言え、千尋に対してこんな後ろめたさを抱えたまま、 接することはできなかった。

「ちょっと用を思い出した。 廊下拭き終わったらこれ片付けて、先に大湯へ行ってろ」

 足元の桶に雑巾を放り込み、それを指差した。

「はぁい!」

 気持ちのいい返事を背中で聞いて、ずんずんと廊下を進んでいく。
 決して竜の青年を喜ばすためではない。 かわいい妹分のため、そして彼女への罪滅ぼしのため、自分は行くのだ。







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