第4回 形外会  2

 端氏(二十四歳、昭和二年八月入院)私の症状には不眠症、隙間風

恐怖、不潔恐怖、夢精恐怖、(とく)(しん)恐怖等がありました。一番苦しかっ

たのは隙間風恐怖で、初め肺炎をやって、医者から風邪をひいてはい

けないと注意され障子の隙間風が気になるようになり、夏の暑い日で

も戸と障子とをピッタリと締め切り屏風をめぐらし、暑くてたまらな

いけれども、なお隙間風が気にかかり、不眠に悩まされるようになっ

た。

 ここを退院する時は、まだハッキリと自覚はできなかったが入学試

験の準備で勉強しているうちに自然に治ったように思う。今は活動も

勉強も自由にできて、昔の強迫観念は全く忘れてしまった。過去五ヵ

年間の苦悩のことを考えると、全く夢のようであります。(そのほか

入院中の作業において二、三の失敗談があった)

 あるとき、肩の凝りを訴える一友人から、どんな運動をしたらよい

かという事を聞かれたとき、病気を治すための運動をするような暇が

あれば、洗濯物でもした方がよいといってやったよころが、その後、

思いがけなくも、その友人から肩の凝りがすっかり治ったといって大

いに喜ばれたことがあります。

 山野井氏(二十六歳、会社員、昭和四年九月入院)私は対人恐怖と

書痙とで、これまで多数の人の前で話する事はできなかった。今もこ

うして立っていると、横隔膜が上のほうへ突き上げるように感ずるの 

であります。対人恐怖のためには十年も苦しんだ。私のはとくに上役 

とか、利害関係のある特殊の人に対して恐怖を感ずるのであります。 

いま考えると当然の事であって、利益関係のない人に恐怖を感じない 

のは当たり前の事です。二十歳頃から人の前で話する事ができなくな 

り、声が震え、人の顔を見る事ができない。実に苦しかった。こうな 

ってから人の気持を読むことが上手になり、人がちょっと変な顔をす 

ると、自分に対して悪意を有するのではないかと考える。非常に敏感  

になる。なんとかしてこの境涯から逃れたいと苦しんだ。   

 しかし学校の成績はよくて、一番から三番くらいであった。友人や

教師の前では他の人に負けないという優越感を感じているが、いやな

人の前では三歳の子にも劣るというほどでありました。冷水摩擦をや 

ったり、腹式呼吸などやったけれども少しも効なく、かえって増悪す

るばかりであった。しばしば死んだ方がよいとまで考え、死ぬ方法な

ども考えた事がある。

 一昨年春、忙しくて一生懸命に字を書き、手が疲れた事から、手が  

震えるようになり書痙になった。いま考えれば疲れれば当然手の震う

べきものを、欲望が大きくて思想の矛盾から、いつでも普通の通りに 

書きたいと思う事から、ますます書痙が増悪したのであります。これ 

がためますます将来の事を悲しみ、対人恐怖も増悪して、普通の人に

は想像もできないほど苦しくなった。先生の著書で先生の事を知り、 

入院しようとしたけれども、親たちも親戚の人も反対したため、不本

意ながら伊香保へ静養に行った。到着の通知が書けないで、女中に書 

いてもらったほどであった。東京へ来て大学の物理療法へ行ったとこ 

ろが、治ることは治るけれども、再発するといわれて失望した。会社

を辞めて田舎へ帰るように親戚の医者にも勧められた。けれどもよう 

やくに父親の了解を得て、ここへ入院する事になりました。    

 入院中は相当に働き、心残りはなかったけれども、対人恐怖につい

ても自信はなかった。書痙もよくならなかったけれども、書痙だけ

が治って、対人恐怖が治らなくては、かえって会社へ出なければなら

ぬという苦痛を恐怖したのでありました。

 退院すれば会社を辞めて田舎へ帰るつもりであったけれども、先生

から会社を辞めては絶対に治らぬと忠告され、しかたなしに会社に踏

みとどまる事に決心しました。そのためには一度会社の重役の了解を

得る必要があるから、ようやく重役に面会する事になりました。しだ

いに会社に近づき、重役室の戸をたたくまでの心の不安、焦躁は普通

の人の想像もできない事と思う。

 重役と一言二言話するうちに、初めて入院の効果が現われた。初め

は少しく震えていたが、後にはスラスラと話する事ができ、話すべき

時と場合と自然に区別がつき、こんなに愉快に話のできた事はなかっ

たのであります。この日家に帰って、先生への手紙を書くに、今まで

書けなかったペン字がスラスラと書けるようになった。

 田舎へ帰ると親たちや兄弟が驚く、周囲のいろいろの事に気がつき

あれもこれもという気持を抑えるのに困ったくらいである。その後会

社へ出て、しだいによくなり、対人恐怖も書痙も日増しによくなり、こ

の頃は以前に健康であった時より、ずっと能率があがるようになり、

同僚とも気持よく付合うようになり、大変に愉快になりました。難し

い事はわからないけれども、気分本位に支配されずに、必要な事はい

やでもしかたがないという事になり、入院前は引っ込み思案で消極的

であり、気持ちが沈滞していたが、今は何もかも積極的になり、偉い人

にもなりたい、金持にもなりたい、なんでも当たるを幸い、やっての

けるという風になりました。

 森田先生 書痙がここで治ったのは、山野井君が第二例でありま

す。雑誌「診療」に昭和四年十一、十二月号に出ております。本症の

病理が従来わからなかったために、治療ができなかったけれども、こ

れが私の発見により神経質の病理と同一である事を知り、これを簡単

に治す事ができるようになった。なお面白い事は、頭痛とか赤面恐怖 

とかいうのもは、本人が悪いといい、また治ったといっても、外から

認めることはできず、本人のいうままに聞くよりほかにしかたがない。

しかるにこの書痙は一目にしてその差別を見る事ができるから面白い

のであります。

 山野井君が重役に会うのに、その前日には予期恐怖があり、その日

なれば不安がしだいに高まり、重役室の戸をノックする時には、もは

や絶体絶命になる。これは常に普通人の心理であります。山野井君が

これをもって普通の人には想像ができないかも知れぬと断わるところ

は、まだ少しく君の修養の不足するところといってよいかと思う。人

はまず誰でも腹がへれば食いたい、目上の人の前では恥ずかしい。こ

れを平等観という。「雪の日や、あれも人の子樽拾い」という時に、

たとえ酒屋の小僧(こぞう)でも、寒い時には苦しい(かん)ずるのを平等観という

のであります。それを自分を寒がりであり、恥ずかしがりやであるか

ら、自分は特別に苦しいというのを差別観という。この差別をいとい

よ強く言い立てて、他人との間に障壁(しょうへき)を高くする時に、ますます人と

妥協(だきょう)ができなくなり、強迫観念はしだいに増悪(ぞうあく)するのである。また例

えば吾人は、眼が横に二つついている事は平等であるが、その眼のつ

きぶりが、実に千変万化(せんぺんばんか)であって美人もできれば醜人(しゅうじん)もできる。これ

が差別である。しかるに吾人はただこの差別のみを強調して(かん)ぜずに

平等と差別を両方面を正しく批判する時に、「事実唯真」を認める事

ができていたずらに自己中心的の小我にとらわれて、強迫観念になる

ような事はないのであります。

 「砕啄(さいたく)同時」という()がある。面白い言葉である。(さい)は卵から(ひな)

生まれる時に、自然に成熟して殻を破って出てくる事である。啄とい

うのは、母親がそれを(くちばし)でツツキ破ってやる事である。これがもし親

鶏が(あわ)てて早く(から)(こわ)せば、雛は早熟で生育する事ができない。これ

に反して成熟した雛が、殻を破る事ができなければ、窒息して死ぬる

という事になる。すなわち雛の完全に生育するには、砕と啄とが同時

でなくてはならない。

 山野井君の40余日の入院生活は、卵がしだいに孵化しつつあった。

重役に会った時に、ここに初めて砕啄(さいたく)同時になって、心機一転し、初

めて新しき世界に生まれる事ができた。その時に暫時(ざんじ)の間、息づまる

ような重い苦悩があったのである。これが生まれ出る苦しみでありま

す。今までも重役の前にはしばしば出たけれども、ますます萎縮し苦

悩するばかりであったが、ここに初めて機縁が熟して、

砕啄(さいたく)同時になり、心機一転したのであります。

 なおここに最も大切なことは、私が同君に対する退院のときの注意で

あります。私も同君に対して、初め40日の予約で治療を引き受けた

が、期限になっても、なかなかうまく行かない。私も少し苦しくなった

から、一度退院して境遇を変え、それでも心機一転の機会がこなけれ

ば、再び入院してもらって無理にも治してみたいというつもりであっ

たのである。退院の時に、同君の将来の方針は、自分は生活には困らな

いから、むしろ田舎に帰って楽に生活しようとのことであった。

私はその時に問うた、君の人生は従来の会社に勤務する事と田舎に帰

る事と、いずれが将来の発展に都合がよく、いずれが自分の希望とす

るところであるか、という事を問うたのであります。もし自分の希望

を捨てて、自分の人生をしだいに退縮(たいしゅく)して行くならば、決して書痙も

対人恐怖も治る時節は到来せぬのである。我々が生きる必要は欲望の

ためである。強迫観念を治すのは希望に向かってのためである。欲望

を捨て、希望を失うならば、命も必要がなければ、病も治す必要がな

いのである。ここが最も大切なる自覚のあるところであるから、皆様

もこの点をよくよく注意をしなければなりません。

 山野井君は初めから柔順すぎて、かえって鋳型(いがた)にはまり、とらわれ

になるという風であったが、この時にも早速私の言をいれて、田舎に

帰る事を中止したのであります。それで直ちに会社に出頭する、重役

に面会する、対人恐怖も自分の思ったように楽にはならない。これで

は治ったという事がいえようか、と私を恨んだ事であろうと思う。

この恨みと同時に、一方にはむしろもう治らぬものと、覚悟し、捨て()

(はち)、捨身の態度になったでもあろう時に、初めてここに心機一転の時

節が到来したのである。またいわゆる「大義ありで大悟あり」という

ように、入院修養の時期の長かった事もむだにはならず、悟りの後の

働きが大きい、という結果になったのであります。

話は違うけれども、不思議な事には、今度、現在入院中の下川君の

紅痛症(エリトロメラルギー)が治ったことであります。これは内科の

広瀬君にも診てもらい、特殊の療法もなく、なかなか容易に治らぬも

のであるけれども、これがいつとはなしに治っていたのである。実際

に生きる力の強さとでもいいましょうか。生の欲望に対する自然の活

動のために、不治の病も治る事である。山野井君の治ったのも生きる

欲望の発揮された結果にほかならないのであります。

 鈴木氏(25歳、文学士、今年2月入院)私は不眠と夜中尿意

頻数(ひんすう)とで苦しんだものであります。今年の1月、寒い盛りに夜中多き

は20回も便所に立った時には随分苦しみました。この尿意頻数は既

に臥褥療法中に治ってしまいました。また私は咽喉(いんこう)の悪いという恐怖

のために声が出ないので、教師になる事ができぬとあきらめ悲観して

いましたが、ここへきてそれも治り、退院後、女学校の先生をしてお

ります。初めの2,3時間は恥ずかしくて顔も上げられないくらいで

あったが、後には平気になり、今はこの通り声も大きくなりました。

以前には何事にも消極的であったが、ここへ来たお陰で、今頃は向

上心があって困るくらいになりました。      

 高野氏(23歳、読書恐怖、大正7年1月入院)昔あった強迫観

念の事は、その後忙しくて忘れてしまった。私は今現在の生活につい

てお話してみたいと思います。私はいま商人ですが、実は商業が大嫌

いでありましたけれども、一人の兄が亡くなって、やむを得ず引きず

られて今の商売をやっている訳です。十何代か前の祖先から引き続い

てやっている商売ですから、しかたなしに引き継いだ(ひきついだ)のであります。

 いつか先生のいわれた事かと思うが、我々は生きるために食うと

か、食うために働くとかいう事はない。ただ食いたいがために食い、

働きたいがために働くのであります。我々は物を事実ありのままに見

るという事が必要であります。

 また世の中に苦痛とか、楽しみとか(さだ)まったものがあるのではない。

同じ見物をするという事でも、同じ事をしていながら、見物人には楽

しいが、案内人には苦しみとなるのであります。

 私が今いやな商売をするにしても、どうせやらねばならぬと(さだ)まっ

たものならば、いつもこれを苦しいと思いながらやるのでなく、楽な

面白い気持でやって行きたい。こう考えて私はいろいろと工夫してみ

ました。

 あるとき子供を連れて八ヶ岳(やつがたけ)へ登った事がある。考えてみれば面白

くもない。なんのためにこんな事をするのか。途中でいやになってし

まった。行くがよいか帰るがよいか、判断がつかなくなった。このと

き私は(こころ)みに、中途から「帰るなら帰れ」「勝手にしろ」という風に

自分を投げ出して、捨て鉢(すてばち)の気分になってみた。ところがその結果は

やはり苦痛のように思われても、山に登った方がよいという事になっ

た。しかもこの全く精神の葛藤(かっとう)がなくて、楽々とした気分であった。

自分の職業の事でもこれと同様である。平常、いやいやながらやって

いるよりは、「やめるならやめよ」という事を心のドン底から命じ、

「勝手にしろ」と自ら投げ出してみると、判断が徹底的(てっていてき)になって、自

分の取るべき道は、やはり祖先以来の商売(しょうばい)である事がはっきりわか 

り、全く自由の立場に立ち、心がかえって楽になり、なんでも自分で

よいと思う事をドンドンとやって行くという風になる。空想的(くうそうてき)にはな

かなかよいという事はないが、事実に当たっては、いかなる境遇(きょうぐう)にも

必ず何かよい事がある。事実的に考えてよいと思う事を片側(かたがわ)から実行

して行く事により、一切(いっさい)複雑(ふくざつ)な問題が解決する。

 また人は(つね)に結果ばかりを見て、満足したり、善い()(おも)いを決めると

いう事はいけない。人生は永遠の努力である。永遠の成長である。人

間はここでよい、という事はない。 ゲーテがある山手の絵を批評し

て、単にこの絵の出来上がりを喜ぶというのでなく、その毛の1本1

無限(むげん)の楽しみをもって書いてあるといった事がある。吾人(ごじん)のする事

は、何事でも単にその結果のみを楽しむ、というようなケチくさい事

でなく、行為そのものに、常に楽しみを見出すという風になって、私

は近頃、結果に支配されないようになり、心持が非常に楽になったの

であります。(井上幹事の閉会の辞あり。夜八時散会した。)

            (『神経質』第1巻、第5号・昭和6年) 


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