福岡へ その1

6/15~17、福岡へ行ってきた。
最新情報の方で紹介させてもらっているが、昨年の冬、遂に占い師デビューを果たした。今回はそれから初めての旅行となる。願うはただ一つ、占いにいらしてくださる皆様の幸せ。
歴史古い順旅、時代も下ってきたので今回から人の世編になっていく。
今回のブログは回った順ではなく、テーマ順に書いていこうと思う。

テーマ1.太宰府に左遷を想う

今回、福岡に行こうと思った一番の目的は菅原道真公。そう、太宰府である。菅公と言えば、藤原時平の讒言(ざんげん)で太宰府に左遷された訳だが、組織の勢力争いで邪魔者が消されるという構図は菅公から千年以上経った現在でもまったく変わっていない。しかも優秀な人ほど消される場合は多々ある。でも人間は、他人を消すという行為に心のどこかで罪悪感を感じずにはいられない生き物なのだ。それが祟りという考え方なのだろうと思ってみたり。そして菅公は神になった。人々の良心に訴える学問の神様に。

菅公をタロットのカードに例えるとしたら「隠者」のカード。「賢者」と名付けてもよさそうな孤高の学識高いカード。私のところにも仕事の悩みを抱えた人がたくさん訪れるが優秀ゆえに組織や集団というものと、うまく折り合えないのかなと思ってみたり。


写真右は「東風(こち)吹かば 匂ひおこせよ 梅の花 あるじなしとて 春な忘れそ」の歌碑。左は御本殿の写真だが、右に写っている木が菅公を慕って飛んできたと伝わる「飛梅」である。

パワースポット13:太宰府天満宮
https://www.dazaifutenmangu.or.jp/

梅といえば、もう一人。私がこの旅行の計画を立てた時はまだ平成だったのだが、令和になった途端、急に知名度が上がった、大伴旅人である。万葉集の編者と言われている大伴家持の父親で、新元号の「令和」は万葉集の梅の花の歌三十二首の序文から引用されている。
彼も菅公より100年以上前、太宰府に赴任している。彼の場合は藤原四兄弟との不仲による左遷説と外交・防衛の手腕を期待されたという2つの説があるが、万葉集からは彼が大宰帥という仕事に誇りを感じていたことは、まったくよみとれないので、私は前者だと思う。が、彼がいい人だったことは、よみとれるので平成から注目していた。
まず「お酒っていいよね!」みたいな歌をいくつも詠んでいて、それが万葉集におさめられている。それと旅人の周りには人が集まってくるようで、後に帰京が決まった時も別れを惜しむ人がたくさんいた。彼らは筑紫歌壇と呼ばれ歌会を開いたりして風流を楽しんでいた。梅の花の歌三十二首も大伴旅人の邸で開かれた宴で詠まれたものである。

左の写真は太宰府展示館。令和になってから、今までの3年分くらいのお客さんが来場したそうだ。右の写真が既に有名になりつつある坂本八幡神社。梅花の宴が開かれた大伴旅人の邸の跡地ではないか、と言われている場所である。旅人の邸は平成の時点ではネットでは調べられなくて、福岡県東京事務所にも資料はないし、現地に行って誰か詳しい人にきこうくらいに思っていたのに、令和になった途端、出るわ出るわ、現地でも、探すまでもなく大勢の人の流れがそちらに向かっていた。ただ、幸い?雨の日の夕方だったので比較的すいていて、こんな誰もいない瞬間の写真を撮るチャンスもあった。

万葉集には梅の歌が多い。なぜ梅かというと梅は当時、日本に伝わったばかりで非常に珍しかったのである。日本人て、なんていうか、そういう人種。。新しもの好きで、ブームとか、熱しやすく冷めやすい。

遣隋使や遣唐使は難波を出発し博多を経て目的地を目指した。奈良・平安時代には太宰府に役所が置かれ、外国との交渉の窓口として重要な役割を果たした。博多や大宰府はこの時代、新しい文化にいち早く触れられる場所であった。
新しい文化に触れられる、私はなんだかワクワクする。菅公にせよ、旅人さんにせよ何をそんなに憂う必要があったのかなと、ちょっと思ってしまう。
ちなみに遣唐使を廃止したのは菅公だが、民営化的なことだったのだろうか?

テーマ2:新しい文化

日本では、新しいものは、だいたい海外から伝わる。逆にいうとヘーゲル的な文化の発展がないのも日本人の特徴と言える。模倣、工夫は得意なのだが。。次元の違うものを生み出すみたいな才能は、あったとしても個人に限られる。

鴻臚(こうろ)館跡に行ってみた(下の写真2枚)。鴻臚館は古代の迎賓館。福岡城跡の隣にあり、旧平和台野球場の下に埋まっていたそうだ。 つかめそうでつかめない太宰府の当時の姿。だって、有名な二人があまり海外に興味がなさそうで。。海外部出身の筆者としては物足りない。鴻臚館跡の調査にはまだまだ伸びしろがありそうなので期待したい。

新しい文化といえば、せっかく福岡に来たので時代は下るが承天寺にも是非とも行ってみたかった。承天寺は地下鉄祇園駅の近くにあり、日本におけるうどん・そば・まんじゅうなどの粉食文化発祥地。鎌倉時代、仁治2年(1241年)に宋から帰国した聖一国師が羹(ようかん)、饅(まんじゅう)、麺(うどん、そば)の製法とともに製粉技術を持ち帰り日本に広めたことから承天寺は粉食文化発祥の地とされている。
また、聖一国師は托鉢の途中で親切にもてなしてくれた茶店の主人にまんじゅうの作り方を伝授。その主人、栗波吉右衛門は「虎屋」の屋号で酒饅頭を売り出した。聖一国師の「御饅頭所」の看板は現在、東京の虎屋に保存されているそうだ。(ただし、虎屋のHPを調べてみたら、吉右衛門の店と虎屋の関係は不明と書いてあった)

左の写真の左が「饂飩・蕎麦発祥之地の碑」で、右が「御饅頭所の碑」。右の写真は太宰府の、かさの家の「さいふうどん」と梅ヶ枝餅。みんな大好き「こなもん」。日本に伝わって本当によかった。こうして食文化が少しずつ進化していく。

島国の日本が外国の新しい文化に触れるには船が必要だが、この時代の航海は命がけであった。旧筑紫の国、現在の福岡県と航海の神様は切っても切れない関係だったんだろうな、と思ってみたり。ここで、今までのおさらいも兼ねて神様編。長くなるので、その2へ続く。

次へ

TOPページへ