夜に生まれ夜に託して・前編

夜も更け刺すような寒さの中、道の両端に残る雪の白さが宵闇に光るように浮かび、夜露に濡れた石畳を白く縁取っている。街路中や家々の屋根を薄っすらと覆う雪が喧騒を吸い取り、二人分の足音が静かな住宅街にコツンコツンと高く響き渡っていた。

通り沿いに並ぶ家の窓にはオレンジ色の明りが灯され、光の道を作っている。ほのかな光のお陰で夜目にも分かる美しい街並み。高さが揃い、大きな看板や広告、ネオンサインは無く、もちろん自動販売機も見当たらない。日本よりも大きくて同じような作りの家が立ち並び、絵に描いたような「ヨーロッパの街並み」がどこまでも広がっている。

日本のように、揃った街並みが突然終わってしまうこともない。新しさと古さが混在していたベルリンの中心地からさほど離れていないのに、見える風景はこんなにも違う。街の景観を大事にしているんだと思った。


一軒の家の前で月森が立ち止まり、黒いアイアン製の門を開けると香穂子を振り返った。

「さぁ着いたぞ」

門を潜れば、パウダーシュガーのように雪化粧を施された樹木が数本植わる小さな庭。その庭を挟んですぐ玄関に辿り着く。重厚な玄関扉には、可愛らしいクリスマスリースが飾られていた。

「蓮くんの家にもリースが飾ってあるんだね。素敵!」
「ありがとう。クリスマスだし・・・君が来るからと思って」

喜んでもらえて良かったと香穂子に向かって微笑むと、リースの飾られた扉に鍵を差し込む。ガチャリと金属音が鳴ると、重い扉がゆっくり開かれた。

少し待っていてくれと告げて、月森が先に中へ入って行く。暗闇の中に姿が消えると、やがて暗い室内に照明が灯された。明りの中から姿を現す広い玄関ホールに奥行きのある廊下。太い手すりを上から滑り降りたくなる程、飴色磨かれた階段。華美ではないけれど、どれも品が良く落ち着いていて、質を重んじる調度や内装。元は海外にある別荘の一つだったと聞いていたけれど、日本の月森家よりも遥かに大きくて重厚感に溢れている気がするのは、やはりお国柄なのだろうか。

お金持ちは違うな・・・.。
暫し呆然として、広い玄関ホールに一人ポツンと立ったままでいると、戻ってきた月森が中へと誘う。

「待たせてすまないな。さぁ、中に入ってくれ。寒かっただろう? 今暖房をつけたから、じきにどの部屋も暖かくなるはずだ」
「凄い! もしかして、セントラルヒーティングってやつ!?」
「うちだけじゃない、寒いこの国ではどの家も同じだ。珍しいものではないよ」

目を丸くして驚いていた私にクスリと笑いかけくる。どこまで凄いの、この家は!と私の考えなぞお見通しな彼の微笑みを受けて、顔に熱が集まるのを感じた。

だって珍しかったんだもの。どうせ私は温かい国の一般庶民ですよ〜だ。
もう、この先何が出てきても絶対に驚かないんだから。
その誓いは、見事に砕ける事になるのけれど・・・・・。

「先に君の荷物を運んでしまおう。部屋へ案内するから一緒に二階へ来てくれ」
「う、うん。よろしくお願いします」

私の荷物を持って階段へと向かう背中を、ハッと我に返って慌てて後を追った。





滑りやすいから、足元に気をつけて。

肩越しに私を振り返り、そう言う蓮くんはヴァイオリンケースと大きなスーツケースを軽々と持ち上げて、階段を上がっていく。本来ならば荷物を持っている彼に対してかけるべきなのに、ハンドバック一つしか持っていない私の方が、艶のある階段を滑らないようにと慎重に上っているのが自分でも可笑しくて。
後ろから付いて行き、力強さを感じさせる背中を見上げながら思った。

蓮くん力あるんだな、やっぱり男の人だ・・・。

先程入れてくれたという暖房のお陰なのだろうか、廊下にも暖かな空気が漂い始めている。
外は刺すように寒くて道も凍っているけれど、重厚な扉を力いっぱい押して家の中に入ればその先に、いつでも暖かくて快適な部屋が待っているという訳なんだね。
なるほど、何だか人間と同じみたい。

一見冷たくて威圧そうだけど正面から想いの限り向き合えば、心の中は温かさで満ち溢れていた。
どこかの誰かさんみたいだよ・・・・。
きっと蓮くんが暮らすこの国の人たちも、同じように素敵な人たちばかりなんだろうな。

そう思わない?

気配に敏感な彼に気づかれないように、背中に向かって微笑みかけた。
でも当然だけど、コタツとかは無いんだろうな・・・ちょっと残念かも。



階段を上ってすぐの所から3部屋並んでいるゲストルーム。
「俺の部屋に一番近いから」との理由で、一番奥側の部屋に案内された。

「ここはゲストルーム、滞在中は香穂子の好きなように使ってくれ」
「うわ〜広い。綺麗な部屋!」
「うちは日本と同じく全室防音だから、ヴァイオリンを弾いても構わない。ただし12時〜3時の間は避けてくれ、国がそういう決まりなんだ。譜面台とかその他、必要なものがあったら言ってくれ」
「至れり尽くせりだね、嬉しい。蓮くん、ありがとう」

クリームベージュ系の壁紙に木枠の窓を覆う白いレースのカーテン。ベッドやナイトテーブル、ドレッサーに至るまで、全てライトオークルで統一されている家具類。ナイトスタンドの間接照明が温かさと柔らかさを醸し出し、一人で寝るには大きすぎるほどのベッドが置かれてもなお、部屋は広さを感じさせている。部屋を見渡せば主張しすぎず清潔で、漂う品の良さまるで心地よいホテルの一室みたい。

素敵な部屋に心ときめかせてながら、さっそく寛ごうと、浮き立つ心のままベッドに腰を下ろした。
しかし彼に引き止められ、再び廊下に連れ出されてしまう。

「香穂子の部屋はこっちだ」
「今の部屋じゃないの?」
「もちろん滞在中は香穂子の部屋だ。ただし厳密に言えば違う」
「意味がわかんないよ」

そう言って首を傾げる私に、すぐに分かるから、と意味深なセリフと笑顔を向ける。何か企んでるような、悪戯を仕掛ける時のような、そんな顔。素敵な部屋だったのにと、少し名残惜しい気持ちを残しつつ彼の後に付いていくと、二階廊下の突き当たりで立ち止まった。


扉を開けた瞬間に私を包む、懐かしい香りと安らぐ空気。

先程のゲストルームよりも広い部屋半分には、グランドピアノが置かれている。ベットに机、CDや楽譜の並んだ棚にオーディーオのセット。見慣れたヴァイオリンケース。
目の前に広がる、必要以外になものが見当たらないシンプルな部屋は、過去にどこかで見たことのある風景。以前何度も訪れた、あの部屋に似ていた。
数年分の時間が急速に巻き戻ったような感覚に、軽い眩暈を覚える程に。

記憶と感覚に間違いがなければ、この部屋の主は・・・・・。

「・・・・・・もかしてここは、蓮くんの部屋?」
「そう、俺の部屋」
「どういうこと! だって今、私の部屋って言わなかった!?」
「香穂子が俺のところへ来るか、俺が香穂子のところへ・・・つまり先程のゲストルームへ行くか、どちらか一つだ」

体中の熱が一気に噴出し、熱くて顔から火が出るかと思った。
そ、そんな・・・いきなり言われても。心の準備ってものがあるでしょう!?
言葉を失って驚いる私に対して、彼はなぜ驚くのかと言わんばかりにきょとんと私を見ている。
一緒なのは、さも当然だというように。

嫌が応にもチラリと視界に入るベットは確かに一つしかなく、とういことは寝る時も・・・・・。
突然凄いことをサラッと言ったりして、いつも私の心臓を壊してくれるけど、まさかここまでとは。


結局どちらも、蓮くんと一緒なのは同じじゃない。
ば、場所の違いだけってことなの?
別々にという考えは、初めから彼の頭の中に無いらしい。

「うっ・・・嬉しいけれど、蓮くんの勉強や練習の邪魔になっちゃうよ」
「俺の事は心配いらない。傍に香穂子がいない方が、大問題だから。それに、せっかく久しぶりに会えたんだ。同じ家にいながらも離れるなんて、耐えられない」
「香穂子は嫌なのか。俺と別な部屋がいいと?」
「い、嫌じゃないよ! 別々は・・・あんな広い部屋に一人ぼっちは・・・私だって寂しいよ。ただね、来る前から何となく分かってたけど・・・やっぱり、その・・・恥ずかしくて」

真っ直ぐ真摯に想いをぶつけてくる熱い視線が、私を射抜く。
どうするのかと、言葉無い問いかけを含んで、どこまでも強く。

こんな時今までなら、駄目だろうか?って私の意見も聞いてくるのに、彼はいつになく強気な態度を崩さない。それは普段奥底にしまい込んでいる鮮烈までな感情が、押さえ切れない想いと共に溢れ出しているからなのだと伝わって、心を激しく疼かせる。

突然で驚いたけれども、私の答えは既に決まっていた。
どちらかと言われたら、迷わず蓮くんの部屋を取る。
過ごすのなら・・・あなたに包まれるのなら・・・部屋を満たす空気ごと、身の回りの全てが彼の色に染まっている方がいい。

視線を合わすのに耐え切れなくなって、染まった頬を隠すように俯いた。
これ以上引き込まれたら、自分がどうにかなってしまいそうだったから。
じっと黙って私の答えを待っている彼の腕をきゅっと掴み、伝える為に身体中の想いと勇気を総動員してかき集める。それでも、ポツリと小さな呟きであったけれども。

「・・・・・・蓮くんのところで・・・いいです・・・・・・」
「ありがとう、そう言ってくれると思ってた」
「言うも何も、初めから選択権無いじゃない」

ふわりと彼の瞳が柔らかく微笑むと、腰に回された腕に引き寄せられた。そっと閉じ込められた腕の中から見上げれば、額に優しくキスが降りてくる。

「では荷物も、この部屋に置いておくから」
「・・・・・・もう、蓮くんの好きなようにして下さい・・・・・・・」
「香穂子のお許しがでたのなら、遠慮なくそうさせてもらうよ」
「あ〜っ! 蓮くんってば開き直った〜」


強気で開き直った彼には勝てる訳がないのだ。抗えない自分が少し悔しいけれども、彼も私が抗えないと分かっているし、そんな自分が嫌いではない。諦めて力を抜けば、あとは想いのまま素直に心と身体を任せるだけ。

「疲れただろう? さっそく休んで・・・と言いたい所だけど、まずは冷えた身体を温めるのが先だな」
「えっ・・・ちょっと、蓮くん!?」

抱きしめる腕に急に力が込められ、広い胸へと強く押し付けられる。
押し戻そうとするも、びくともしない胸からは、シャツを隔てて肌の熱さと胸の鼓動を直接感じてしまう。
収まっていた熱が再び身体中を焼くように駆け巡った。

まさか・・・そんな。いきなり、もうするの?
だって私、今着いたばかりなんだよ!?

真っ赤になってジタバタと慌てふためき出す香穂子を、暫く腕の中に閉じ込めていた月森。
初めは声を噛み殺していたものの、そのうち可笑しくて堪らないと言った様子で、楽しそうに声をあげて笑い出した。

笑い声を振動で受け止めるくすぐったさに身を捩りながらも、何が可笑しいのかと、潤んだ瞳のまま上目遣いに睨み上げる。すると、少しだけ力を緩めて解放してくれた。困ったように首を傾ける彼の顔は、まだ小さく笑いを堪えたままだったけれども。
片手で優しく髪を撫で下ろしながら、頬を包み込んだ。

「温かいお茶を用意するから、荷物を片付けたらリビングへ行こう。後でシャワーも使ったらいい」
「あ・・・お茶・・・ね」
「香穂子は、何をそんなに動揺していたんだ?」
「・・・蓮くんのイジワル」


ほっと胸を撫で下ろしたのもつかの間。
耳元に顔を寄せた彼が熱い吐息と共に囁いた。

「・・・・・・・・」
「!!」


今度こそ本当に二の句を告げられずに驚いていると、彼の顔がゆっくり近づいてきて、唇に柔らかくて温かい彼のそれが重ねられた。触れるだけのキスを受けて我に返った脳裏に、熱を持つ耳朶の奥残る先程吹き込まれた彼の言葉が、呪文のように何度も繰り返される。




『時間はたっぷりあるんだ、別に急がなくてもいいだろう?』