車窓〜ride in a train〜

「うわ〜都会だね!」


空港からのバスがツオー駅に着くと、香穂子が目の前に広がるベルリンの夜景に歓声を挙げた。夜の闇をなぎ払うかのように照らされた無数の明かり、その中を家路を急ぐ慌しい人の群れや車の流れ、ポツダム広場の方向に見える高層ビル群。その一方でナイトクラブや、古き良き時代のヴァリエテといった、眠らない街の顔を覗かせている。日本の都心よりも活気のある様子に、少し驚いているようだ。
気持ちは分からないでもないが、いったいどんな想像をしていたのやら。


「田園風景が広がって、お城や森があって・・・観光ガイドブックで見るような街を想像していたのか?」
「うん・・・。こんなに賑やかな所だとは思わなかった・・・」
「郊外に行けばいくらでもあるが、ベルリンは少し特殊な街なんだ。今ヨーロッパで一番若者が集まるのも、ベルリン。旧西地区のクーダムや、旧東地区のミッテなどは個性的な店も多くて、賑やかだ」
「そうなんだ・・・若者っていうとパリやロンドンてイメージだったから、ちょっと意外」
「明るくなったら街を案内するよ、昼と夜では見せる顔が違うから。夜だからまだ何も見えないけれども、古さと新しさが混じった、良いところだよ。自然も多いいし」


地下鉄に乗るため、Uバーンの入り口へと向かう。入り口を見分けるのは簡単だ。丸い緑に白の字が近郊電車・環状線のSバーンで、四角い丸に白の字が地下鉄のUバーン。青い看板下の会談から地下へと潜れば、ごみ一つも無く、シンプルかつ清潔で広々とした構内が現れた。 Gleisは日本で言うホーム、Ausgungは出口。最低これさえ覚えれば、香穂子も迷わず行けるだろう。日本のように、運行時間は分単位で正確に運行されているのも、お国柄なのかも知れない。


ただし心配なことが一つだけ。
電光掲示板には次に来る電車の終着駅しか表示されていないから、行きたい駅の終着点も覚えなければ、ホームどちら側の電車の乗るかが分からないのだ。説明を聞き、時に質問を交えながらメモを取る香穂子が、「間違えたら折り返せばいいから、とりあえずどっちかに乗ればいいんだよね」と、笑顔で楽観的な返事を返した。
・・・だから君のことが心配でたまらないのだと、どうすれば分かってもらえるのだろうか。
前髪を掻き揚げるように頭を押さえて、小さく溜息を吐いた。


きょろきょろとホームを見渡した香穂子が壁に掲げられた絵を目に留めて、楽しそうに声を上げた。
王冠に横向きの熊の絵。


「ここにも熊がいる。可愛い〜」
「あぁ、BGV(ベルリン交通連盟)のマークだ。街のシンボルが熊だから、他にも至る所に熊が潜んでいるよ」
「いろんな熊さん探したいな」


空港からここまでの道のりで既に何匹の熊を見つけたのだと、熊ハンターとなった彼女は、指折り数えて見つけた場所と熊の風体を語っていく。紋章であったり、ポスターや人形であったり石造であったり・・・。
無邪気な笑顔に癒されながら瞳と口元を緩め、耳を傾ける。


初めてヴァイオリンに触れた時の様に、覚える事が楽しいのだと、彼女の全てが語っている。俺が教えた技術をあっという間に自分のものにしていったのと同じく、俺が住む街や暮らしのことも吸収して、あたかもずっと住んでいたかのようになるのかも知れない。最初は彼女の気持ちに戸惑ったものの、昔に戻ったような新鮮さを感じで、教えることを楽しんでいる自分に気がついた。


そうするうちにも遠く線路の奥からゴウッという音が聞こえて、人のまばらなホームに黄色い車体の電車が滑るように入ってきた。停車した扉を開けようと手を伸ばして思い止まり、隣を見ると案の定、ねだるようにじっと無言で俺を見つめている。


「・・・開けてみるか?」
「うん、横の赤いボタンを押せばいいんだよね」
「旧式車両の時はボタンでなくハンドル式なんだが、基本的にやり方は一緒だ」
「こうかな・・・?」


ドア横の赤いボタンを押して扉が開くと、「開いた!」と目を輝かせて喜んだ。開いてる席へと誘う最中も肩越しに振り返り、閉まる時だけは自動の扉を目新しそうに見つめている。開け閉めだけでも楽しそうに興味を持つ香穂子を見て、自分が初めて着た時を思い出した。俺の場合は彼女と正反対で、周りを見たり楽しんだりする余裕は、全くと言って良いほど無かったが。



人もまばらな車内の風景は、とても刺激的だ。ギターを弾きながら歌いだすミュージシャン、物乞いをするホームレスの子供。昼間なら私服係員による突然の検札など・・・。満員の車内に乗り合わせたことは一度も無い、彼らも乗客が少ないからこそ活動できるのだろう。
地下鉄といってもずっと地下を走っている訳でなく、時折地上にも顔を出す。肩越しに見える車窓と流れるような光に魅入りながらも、何かが起こる度にびくっと視線を向けて釘付けになる香穂子は、まるで驚いた子猫のようで、その度に俺の小さな笑いを誘った。日本では見慣れない光景に、そわそわ落ち着かない様子で車内を見渡している。


物乞いをするホームレスらしき少女が車内をまわって、乗客から小銭を受け取っていた。俺たちの近くまで来た時に、先程からずっとその少女の様子を伺っていた香穂子が、バックから財布を取り出そうとする。そっと周囲に気づかれないように手を止め、彼女だけに聞こえるように小声で囁いた。


「車内では、むやみに財布の場所を知らせないほうがいい」
「だってあんなに小さい子供なのに、可愛そうじゃない」
「香穂子の優しい所は、俺も大好きだよ。だが、ここは黙っていてくれ。人の心配も大切だが、今は自分自身の安全が第一なんだ」


視線で扉横に掲示されているポスターを示す。書かれていた注意書きは「スリ注意」。外国人が多くいるこの町で、なぜかそれ程多くない日本語だけが、ドイツ語に併記して大きく書かれていた。


「何で日本語だけ・・・・・」
「世界中どこでも同じだが、俺たちはいいカモだから」


それを見た香穂子が息をのみ、膝の上に置いたバッグを、ぎゅっと強く懐に抱きしめて抱え込んだ。車内だけではなく、スリや置き引きは日常茶飯事だ。常に注意をしなければ、いずれ我が身に降りかかる。楽しいだけではない、危険と隣り合わせの日本とは違う環境なのだと、彼女の中にも少しずつ実感が沸いたようだった。


しかしわずかの後に、でも・・・・と遠慮がちに声をかけてくる。
仕方無いなと瞳を和ませて微笑みかけると、耳元に顔を近づけた。


「財布は鞄から出さないで。周囲に気づかれないように、そっと中で小銭だけ取り出すんだ。席を離れる間だけ、俺が鞄を預かろう」
「ありがとう、蓮くん」
「俺からのも、あの子供に渡しておいてくれ」


鞄を預けて席を立ち上がった彼女の手に、ポケットから出したコインをそっと滑り込ませる。一瞬驚いたように目見開いて、俺を見つめてきた。散々注意後だけに、どうやら意外だったらしい。俺の手の平ごと柔らかく握り締めるとふわりと微笑んで、少女の元へ駆け寄っていった。




香穂子は電車やバスなど乗り物に乗ると、すぐ眠ってしまう癖がある。初めこそは緊張して周囲に興味を示していたものの、数駅過ぎる頃には口数が少なくなり、急に大人しくなってしまった。
ちらりと隣を見れば、鞄を両腕で抱えながらも、睡魔と格闘している姿。それでもくっつきそうな瞼を頑張って開きながら、時折飛びそうになる意識を必死に呼び戻そうとしている。
無理も無い・・・長旅と時差で疲れが出てきたのだろうか。


このまま、寝かせてやりたいが・・・・・・。



突然、静寂を裂いて大きな笑い声が車内に沸き起こった。
顔をしかめて、不快に騒ぎ立てる声へと視線だけを向ける。つい先程の駅でこの車両に乗り込んできたのだが、サッカー観戦の帰りらしく、揃いのユニフォームを着た数人の集団が、手にアルコールを持って酔っ払っていた。俺たちの座る席からは離れているものの、万が一騒ぎに巻き込まれては香穂子に危険が及んでしまう。


ぐるりと車内を見渡せば、元々あまり多くは無かった車内から、更に人が少なくなっていた。この車両には警備員も乗り合わせていない。・・・助けも期待薄だ。


一度、降りるしかないな。
眠さで意識を手放しかけ、半ば俺に寄りかかっている肩を軽く揺すって起こした。


「香穂子・・・起きてくれ」
「・・・もう着いたの・・・?」
「いや、まだだが・・・・。とにかく次の駅で一度降りるぞ」


まだ起ききっていないようで、あくびをかみ殺しながら目をこすり、緩い動作で抱えていた鞄を手に持った。ホームに電車が滑り込むと同時に香穂子の手を強く握り締め、早足で車両の外へ出る。すぐさま隣の前に行き、扉を開けて中に滑り込んだ。
席に座って落ち着いたところで、香穂子が不思議そうに訪ねてきた。


「・・・・・・隣の車両に移ったの?」
「あぁ、疲れているところをすまなかったな。どうしても、隣の車両を避けたかったんだ。その・・・良くない人たちがいたから念の為」
「一度外へ出ないと駄目なの?」
「車両同士で移動が出来ないから、密室になってしまうんだ。人が少なくなれば、万一の時にも助けを求められない。俺だけではないと思うが、できるだけ警備員のいる車両や、人の多い車両に乗るようにしているよ」


俺の言葉を聞き、すまなそうに申し訳なさそうに表情を曇らせながら、瞳を細めて見上げた。


「蓮くん、バスや電車に乗ってからずっと緊張してる気がする。私ばっかりはしゃいじゃって・・・」
「すまない、不安にさせてしまったな。確かに、緊張しているのかもしれない。今は特に旅行者だと看板しょっているようなものだし、夜は何かと物騒だから」
「ごめんんね。一人でも大変なのに、私の分まで余計に気を使わせちゃってるんだね。おとなしくタクシーにしておけば良かったかな・・・」


そう言って、抱きしめたバックに顔を埋めるように、シュンとうな垂れた。
後悔や悲しさやといった気持ちが俺の中に流れ込んできて、きつく胸が締め付けられる。
心が・・・痛んだ・・・。
彼女を守らなければという想いが焦りとなって、逆に不安にさせてしまった。謝らなければいけないのは君ではなく、俺の方だ。


「この街で君を守るのも俺の役目だから・・・君が気に病むことは、何も無い。どうか安心していてくれ」
「でも・・・蓮くん・・・・・・」
「自分の身は自分で守る。意識さえしっかり持ってくれれは、怖い場所ではない。それは日本でも同じだと思う」
「うん・・・・・・・」
「素敵な場所や良い所もたくさんあるが、それだけでなく、影の部分も合わせて知って欲しいんだ。一人でも来られる様になりたいのなら、なおさら」


泣きそうになる頬にそっと両手を添えて、優しく包み込む。胸に宿る思いを全て集めて、精一杯の微笑を向けると、額に素早く触れるだけのキスを降らせた。頭を抱え込むように肩を抱き寄せると、自分の肩へともたれかからせた。


「もう車両を変えることは無いだろう。後少しの間だが眠るといい。着いたら、起こすから」
「・・・じゃぁ、ちょっとだけ・・・・・・」


小さく笑って寄りかかった肩に擦り寄ると、身体を預けて静かに瞳を閉じた。
預けたものは、寄りかかる華奢な身体だけでなく、その想いと心までも・・・。
数分も経たないうちに、規則正しい小さな寝息が重みを乗せた肩から聞こえてきた。


起こさないようにと、わずかに首を傾け視線を向ける月森の表情は、どこまでも甘く柔らかく。香穂子の天使のような寝顔を見つめながら、空を覆う夜闇の代わりに優しく包み込んでいた。