「突然失礼しました・・・何やら具合が悪そうにお見受けしたので、つい声を掛けさせて頂きました。日本の方ですよね?」
心配そうに俺を覗き込んでいたのは、白髪の小柄な老人だった。
アジア系の容姿と流ちょうな日本語から察するに、きっと彼も日本人なのだろう。身なりや年格好から、自分の祖父と同じ年齢くらいに思えた。
日本語と聞いた途端にあからさまな敵意をむき出しにしたという事は、無言で肯定しているようなものだと心の中で舌打ちする。心配をしてくれるのはありがたいが、まだ信用したわけではない。
老人は月森が醸し出すむき出しの警戒心を解くように、日本語のまま穏やかに話し続けた。
「ご安心下さい怪しい者ではありませんよ。この老いぼれに何ができると言うのでしょう。この辺りを散策していたのですが、あなたの奏でる音色に惹かれて川沿いまでやってきたんです」
俺の演奏に・・・?
「素敵な演奏につい聴き入ってしまいましたよ。どなたか愛しい方へ奏でていたのですか?」
「えっ!?」
「穏やかな優しい表情をしていらしたから、きっと音色を届ける相手は大切な方なのでしょうね。ヴァイオリンという楽器は耳だけでなく、表情や心でも聞くことが出来るのだと感じましたよ」
「はい・・・。俺の・・・一番大切な人です」
突然の意表を突いた質問に驚いたものの、警戒心はすっかり吹き飛んで、連られるように日本語で答えていた。
なぜだろうか・・・しかも見ず知らずの初対面の人なのに、自分の気持ちまで正直に。
温かさを感じる穏やかな瞳や紳士的な身のこなしを見ると、どうやら悪い人物ではなさそうだ。
音楽を愛おしむ人物に悪い人物はいないだろうと、本能が俺に告げている。
「日本語を話されるようですが、あなたも日本の方・・・ですか?」
「えぇ、そうです。こちらこそ突然話しかけてすみませんでした。驚きますよね、異国の地でいきなり日本語で話しかけられては。他の国よりは安全とはいえ、この街の治安もある。特に日本人は狙われやすいですからね。あなたが警戒するのも無理はない」
「・・・失礼しました」
謝る月森に、気になさらないで下さいと、目の皺を深くしながら穏やかに笑った。
手の中に握られたヴァイオリンに目を止める。
「学生さんですか?」
「はい。市内の音大に留学中でして、ヴァイオリンを専攻しています。あの・・・あなたも音楽を?」
「残念ながら私は音楽でなく絵画でしてね、旧ナショナルギャラリーで学芸員の責任者をしてます。音楽は好きでたしなむ程度ですよ、この国は生まれた時から音楽が身近にありますからね。それに絵画も音楽も想いを形にするという点では、同じ芸術ですから」
旧ナショナルギャラリー。
このシュプレー川の中州北側にドイツ屈指の博物館が集まっていて、通称博物館島と呼ばれている。古代遺跡や絵画・彫刻など展示内容は多岐に渡り、見応えは充分。島全体が世界遺産にも指定されている。
確か旧ナショナルギャラリーはドイツ人画家達の絵画や、印象派の絵画を集めた美術館だと聞いたことがある。
そこの責任者なのだから、美術に関しては凄い人物なのだろう。
美術が苦手だから絵心に関しては全くと言っていい程良く分からないが、などほど・・・。
音楽と同じく想いを形にするのは、絵画も同じということなのか。専門分野だけでなく、幅広く目を向けてインスピレーションを感じられる感性。音楽をやっているのかと思うほど造詣深く感じられたのは、そういうことかと納得した。
音楽もきっと同じなのだと思う。
殻に捕らわれず、いろんなものに目を向ければ、より深い音楽が出来るかも知れない。
「こちらには長いんですか?」
「えぇ・・・戦前からなもので、もう何十年になるでしょうか。絵画の勉強にきてそのまま・・・・。帰ろうにも戻るきっかけが掴めずに、月日だけが流れてしまいました。今では日本には家も知人もいませんよ。だからでしょうか、時折無性に日本語が話したくなったり、日本が恋しくなるんです」
「私にも・・・分かります・・・」
いつしか柵沿いに二人並んで、すっかり話し込んでいた。
深い皺に刻まれた老人の横顔は、緩やかに流れるシュプレー川の水面を眺めながらも、どこか遠くを見つめている。目に映るベルリンの街の向こうに、今は戻ることが叶わない、遙か遠い日本の景色を見ているのだろうか。
俺にはまだ、戻る家も待っていてくれている人もいる。
そう思うと、懐かしくなったり辛いことも確かにあるけれど、俺はまだ幸せな方なのだと思い知った。
この幸せに甘えたままではいけない。手の中に掴んでおかなければ、いつか消えてしまうのだという事も・・・・。
一歩道を間違えれば、自分もこの老人と同じような未来を辿るのかもしれないのだ。
私のようになってはいけないと、どこか哀しそうに伝わってくる想いと、この老人が歩んできたであろう人生の重さが心に圧し掛かりきつく締め上げてくる。まるで、時分が責められているような錯覚に陥りながら、川の対岸を見つめる視線と、柵を掴む手にも自然と力が籠もった。
「今の若者は楽な方へと行きたがるのに、あなたはあえて異国の地での辛い道を選んでいる。まだお若いのにいろいろ経験されたり、思い迷われたりされたようですね。若さ特有の新鮮さと勢いだけでなく、深さが伝わってきました・・・心を掴むような。きっと、無駄にはならないと思いますよ」
遠くを見ていた視線を俺に戻して、諭すように語りかけるのを正面で受け止めながら、どこか信じられない思いで聞いていた。
そんな風に言って貰えたのは、初めてだった・・・・・・・・しかも音楽に関わっていない人から。
技術ばかりで全く正反対のものだとばかり思っていたし、ましてや自覚すらしていなかったから。
お世辞ではないと分かる一言がとても嬉しく心に響いて。
足下さえ見えない闇の中で立ちすくんでいた俺に差し出された、小さな灯りの温かさと眩しさに、気を緩めてしまえば、みっとも無いほどに涙が滲みそうなのを、必死に堪えた。
漂う沈黙を破るように、この場空気に不釣り合いな賑やかさを見せる遊覧船が、歓声を上げて岸辺の人へと手を振りながら近づいてきた。川面から強さを増して吹き上げてくる風になぶられる前髪を掻き上げつつ、かき消されそうな言葉を聞き逃すまいと意識を集中させる。
「もし宜しければ、未来のヴァイオリニストさんに一曲リクエストをお願いしてもよろしいですかな?」
「俺のヴァイオリンを・・・・ですか?」
「えぇ・・・先程の曲を聴いていたら、あなたの弾く曲がもっと聞いてみたくなりまして。まだ具合が優れないようでしたら、無理にとはもうしませんが・・・」
申し訳なさそうに困った顔でお願いをしてくる老人に、月森は初めてふわりと微笑んだ。
「かまいません。どんな曲でもお望みのものを喜んで」
「では日本の曲を、お願いします、何でもかまいません。この老い先短い人生、もう生まれ故郷に戻ることは無いでしょうから、せめて最後に聞いておきたいのです」
「日本の・・・曲・・・・・・」
日本の曲とは何だろう? しかも何でもいいと言われてしまっては困ってしまう。
第一にこの老人が知るような時代の歌謡曲など知るわけもなし。
日本の曲をと言われても、以外とすぐ思いつかないものだなと、自分に半ば呆れてしまう。
聞いただけで日本を思い浮かべるような曲で、年代を問わずに親しまれている曲と言えば・・・・。
賑やかに行き交うクルージング船が通り過ぎ去るのを待ってから、月森はヴァイオリンを構えて瞳を閉じた。
弓が弦の上を静かに滑り、緩やかでどこか切ない甘い日本の調べが異国の地に響き渡る。
奏でる曲は“うさぎ追いし〜”と歌い始まる童謡の「ふるさと」。
この曲を人前で弾くのは、恐らく初めてではないだろうか。
もしかしたら幼稚かと思われるかも知れないが、童謡立派な日本を歌ったメロディーだ。
歌詞とメロディーを思い出し、噛みしめつつ・・・・・・。
いくつになっても俺の心の中にある、変わらない故郷。
俺を育ててくれた大切な街でもあり、そして君と出会った思い出の街。瞳を閉じると住んでいた家や通っていた校舎、香穂子とよく出かけた公園、懐かしい人達・・・あの様々な出来事が鮮やかに浮かぶ。楽しかったこと、嬉しかったこと、悲しかったことも切なかったことも、過ぎ去った時の向こうで輝いて俺を支えてくれている。
高校の時に香穂子の音楽に出会って、彼女自身のお陰で俺は救われた。
それからもずっと、俺の安らぎと救いであり、溢れる程の愛しさをもたらす大切なものであり続けている。
彼女が俺を救ってくれたように、同じように自分の音楽で他の誰かを救えたらいいと、ずっと思っていた。
個人として、香穂子にとっても俺が同じ存在でありたいと思うし、ヴァイオリニストとして・・・より世界中の多くの人に、俺の想いと音色を届けたい。
何よりも、音楽の素晴らしさを・・・・・・。
今まで自分の事だけで精一杯で、大切なたった一人の人さえも悲しい思いをさせていたいうのに、俺に出来るのだろうか?
見ず知らずの名前も知らない初めて会った人に、想いと音色を伝えることが・・・。
でも出来ることなら、悩みや痛みを抱えるその心が、俺の音楽で安らいで欲しいと思う。
たった一人の聴衆・・・全てはここから始まるのだ。
恐れと不安に飲み込まれそうになるのを、心の中だけしっかり見つめて闇を払い、音色を奏でる。
気持ちを新たに立ったスタートラインからは、足下も分からない程濃い霧に覆われていた山頂が、今までよりもはっきりと姿を現したように見えた。
音色に、ふわりと温かいものが沿うように重なった気がした。
それは決して声高な叫びでなく、そっと背中包んで押してくれるような優しさ。
いつも側で感じていたから、気配だけで分かる・・・。
どんな時でも前を向いて進む大切さを、音楽とひたむきな姿勢で示してくれた香穂子のものに違いない。
言葉無き彼女の声援と想いが、温かさを心にまで染みこませて、安らぎと力を与えてくれる。
遙か遠くから届けてくれた、彼女の声援に応えよう。
香穂子以外では初めて、俺のヴァイオリンを聞きたいと望んでくれたこの老人・・・たった一人の聴衆に応えよう。
弦を震わせ巧みなボウイングとヴィブラートで朗々と歌い上げる音色のキャンバスに、故郷の思いという絵の具を乗せて曲という一枚の絵を描いてゆく。
太陽のスポットライトを浴びながら、緑と美しい建物が添う川沿いの遊歩道をステージにして・・・・・・。
俺の描く故郷とこの老人の思い描く故郷は違うかも知れないが、心に残した気持ちは違わないはずだ。
遙か遠い昔の景色が、心に浮かんでくれればいい・・・・そう願いながら。
いつしか音色の中に自分自身を溶け込ませる感覚に、どこかまでがヴァイオリンでどこからが自分なのか、その境目さえ分からなくなっていた。