“愛の挨拶”
自分の想いを君に届ける為の曲と言えば、これしかないと思った。
高校の学内コンクールの後で俺に届いた香穂子の音色、それが届いて今の俺たちがある。
香穂子に音色を届けるのは、今度は俺の番だ。
この地にファータはいないだろうが、俺だけの力でやり遂げてみせる。
チャンスは、今しかない・・・・・・・。
瞳を閉じて自分の内面に逃げずに向き合うと、自然と気持ちが音色に重なり、二つの波長がやがて一つになる。
まるで音色に溶け合ったかのように、どこか浮遊する感覚に包まれながら、このまま君の元へ飛んで行けそうだと思った。
メロディーの終わりを告げる緩やかな甘い音色と透き通るような高音が、目の前に流れるシュプレー川と高く晴れ渡る秋空へと吸い込まれていった。弦と空気が余韻に震えるのを感じながら、弓が弧を描いて降ろされる。
月森はゆっくりと閉じた瞳を開きヴァイオリンを肩から降ろすと、目の前に広がる風景に目を奪われた。
ここは・・・!?
シュプレー川の上を、一部の空間だけが切り取ったように違う姿を浮かび上がらせている。
・・・見たこともない殺風景なコンクリートが広がる屋上の風景だ。
しかし周りを振り向けば変わらぬ川沿いの遊歩道と、背後に広がるのはティーガルデンの広大な森。
川に向かって奏でていた筈なのに、俺は一体どこにいるんだ・・・夢でも見ているのだろうか?
夢と現実の区別さえ付かずに困惑していると、陽炎のように浮かび上がる屋上の中に人の気配がした。
赤い髪をした女性の姿が見える・・・まさか!?
ぼんやりとした人影が、やがて少しずつ見覚えのあるシルエットを作り出してゆく。
霧が晴れたようにはっきりと現れたのは、あれほど会いたいと強く願わずにいられなかった彼女の姿。
屋上の青空の下に佇む香穂子だった。
「香穂子・・・・!」
コンクール用の衣装だろうか。グリーンのドレスが彼女の赤い髪に鮮やかに栄えてよく似合っていて、しなやかな身体のラインを惜しげもなく晒していた。それに髪を片側に纏めているせいか、それとも化粧のせいかドキリとするほど大人っぽくて・・・呼吸が止まる程に目を奪われる。
なぜ香穂子の姿が見えたのだろう。
しかも、彼女も俺が見えているようだった。
これはきっと音色が俺に見せた夢か幻なのだと、霞のかかった意識の片隅で思う。
例え夢であってもいい・・・幻でもいい・・・。
たが今目の前にいるのは、いつも記憶の中や夢の中に見る彼女とは少し違う気がする。なぜなら俺が最後に会った時の彼女よりも、だいぶ大人っぽくなっている印象を受けるから。
紛れもなく今の姿なのだと、なせだろう・・・確信はないのに、俺にはそう分かるんだ。
あどけなさと元気さの面影を残しつつも、大人の女性へと変わり始めていた香穂子。
少し、痩せただろうか。
・・・暫く見ないうちに、綺麗になったな・・・と思った。
彼女の春の日差しの様な微笑みが、俺の心を照らして温かく包み込んでくれる。
久しく忘れていた、出会った頃のように激しく高鳴る鼓動。胸打ち震える感覚。
幸せすぎても胸が痛むのだと、初めて知った・・・。
もっと近づきたくて、叶わないと知りつつも触れたくて・・・・・・。
一歩足を踏み出すものの、川にかかる柵が行く手を遮るように二人を阻み、彼女へ近づく事を許さない。
香穂子が何かを叫んでいる声が俺まで届くことはなく、それでも表情や唇の動きや直接俺に響くように伝わる想いから捕らえようと、微弱な電波を拾うように意識の限りを集中させる。
必死に駆け寄り俺に向かって手を伸ばしているのに、その手を掴むことさえ出来ずに、ただ見守る事しかできなかった。
彼女の伸ばした手がホログラム映像のように俺の身体をすり抜ける。やるせない虚しさと悲しさだけが楔のように体の中に突き刺ささり、心と体中を走り抜ける鋭い痛みに耐えるように思わず眉を潜めた。
やはり幻なのだ・・・触れることが出来ないのだと・・・・。
夢や幻とは、時として何て残酷で無情なものなんだろう。
俺だけでなくきっと香穂子も思った筈だ。
その瞬間の君を俺はきっと忘れない。いや、忘れてはいけないのだと思う。
届かないと知った瞬間に見せた、絶望と悲しみに染まった顔を。
本来ならば触れることが出来るくらい近くにある、縋るように見上げた大きな瞳から溢れ出る涙を。
絡み合う瞳をそのままに、自らの戒めとして心と記憶に刻みつけるようにしてじっと見つめ続けた。
どんなにかこの腕で強く抱きしめて、溢れる涙を拭ってやりたいか。なのに目の前で何も出来ないのがこんなにも悔しくて辛いことなのかと、自らの歯がゆさに川の柵の手すりを強く握りしめる。
これは君を悲しませた、俺に対する罰。心と身体が引きちぎられそうだとは、まさにこの事だ。
泣かせたくはないのに、いつも俺は香穂子を泣かせてばかりだ。俺の留学が決まってからは、ずっと・・・。
どうしたら君の涙が止まるのだろうか、笑ってくれるのだろうか。
大好きな笑顔でいて欲しくて・・・愛していると伝えたくて・・・きっと迎えに行くから、もう少しだけ待っていてくれと我が儘を言いたくて・・・。
音色が生み出した奇跡と言うのなら、もう一度俺に力をくれ。
心にある想いの全てを込めて生み出した、一つの熱を彼女に伝える為に。
キラキラと光を放ちながら次第に霞んでゆく香穂子の唇に、そっと触れるだけのキスをした。
願いが強いあまりに夢を見たのかと思ったが、唇に確かに感じた柔らかさと温かさは、まぎれもなく本物だった。
香穂子の音色が俺に届いたように、俺の音色も彼女に届いたのだろうか。
きっと・・・届いたはずだ。
意識が浮上する感覚の後、霞がかったような頭が次第に透明さを取り戻していく。
うっすらと目を開けた先にあったのは、演奏前と変わらない、見慣れたシュプレー川とベルリンの街並みだった。
どれ程の時間がたったのか感覚さえ掴めぬまま、川の流れをぼんやりと眺めていた。
戻って・・・きたのか。それとも君が去ってしまったのだろうか。
「・・・・・・!」
立ちくらみか!?
突如目の前が真っ暗になり、体中の力が吸い取られる感覚に見舞われた。白くぼやけてチカチカする視界と、早鐘のように打つ鼓動。崩れ落ちる身体を支えるように川の柵に縋り付き、遠のきかけた意識を必死に繋ぎ止める。ヴァイオリンだけは守らなければ。
そのままうずくまるように片膝を付き、浅く短く続く呼吸を繰り返す。
意識を飛ばすほどに演奏に集中したのは実に久しぶりだから、反動が来たのかも知れない。
やり遂げた充実感に満ちあふれいていて、精も根も尽き果てた・・・そんな感じだ。
「大丈夫ですか?」
日本語・・・?
言葉と共に頭上を覆った陰に、月森は柵に身体を預けたまま眉を潜めた。
久しぶりに聞く母国の言葉に懐かしさを感じたものの、異国の地で過ごす間に身につけた防犯意識が警報を鳴らす。純粋に行き倒れそうな俺を心配しているのかもしれないが、この国を始め外国ではそうとも限らない。
強盗、スリ、置き引きなど何かと日本人は標的になりやすいから、街でいきなり日本語で話しかけてくる輩には、特に警戒するようにしているから。
生きていく為とはいえ、まず人を疑う所から始める俺を見たら、君は悲しむかもしれないな・・・。
気付かないふりをしようか、最悪の場合は逃げるしかないかと考えを巡らせるうちに、体中に緊張が走る。
相手の狙いは何なのか・・・。
ゆっくり起こす身体が、まだ少しくらいている。気を保つように、川の欄干を掴む手にも自然と力が籠もった。
月森は覚悟を決めて挑むように振り仰ぎ、視線で突き刺すように鋭く相手を睨み据えた。