『ブラヴォー!』


弾き終わりゆっくり瞳を開けると、一瞬の静寂の後に多くの聴衆の拍手と歓声が上がった。
この辺りを散策していた人達だろうか、いつの間にこんなにも集まっていたのかと驚きに目を瞠った。


『今のはどこの国の曲だい? 始めて聞いたけど、何だか無性に子供の頃を懐かしく思い出したよ』
『そうね・・・切なくて、胸が締め付けられたわ〜。私も、国に残してきた家族に会いたくなって来ちゃった』
『・・・ありがとうございます・・・・・』


ヴァイオリンを肩から降ろすと、やんややんやと押し寄せる聴衆に圧倒されつつもお礼を述べた。
それよりも先程の老人はどこへ行ってしまったのかと、人垣をかき分け見渡して探し出す。


いた・・・!


前列の隅の方に目を閉じたまま押し黙り、俯いてじっと佇んでいた。
静まりかえった聴衆が俺と老人を取り囲むように、事の成り行きを静かに見守っている。
何か気に障ってしまっただろうかと急に不安になり、数歩近づいてそっと覗き込んだ。


「あの・・・すみません・・・」
「・・・ありがとう・・・ございます・・・。もう、思い残すことはありません・・・・・・」


瞳を閉じたまま黙って佇んでいた老人が、ポツリと静かに、でもしっかりと月森に告げた。
閉じられたままの瞳から流れ落ちる透明な涙の滴が、深い皺の刻まれた頬に幾筋も伝わせながら。


高校の時に香穂子の音楽で、彼女自身のお陰で俺は救われた。
同じように自分の音楽で他の誰かを救えたらいいと、その時からずっと思っていた。
ヴァイオリニストとして大切な一人だけでなく・・・より多くの人を・・・・・・。
今まで自分の事だけで精一杯で、大切なたった一人の人さえも幸せにできないでいるのに、俺に向かってありがとうと涙を流すこの老人の心を、俺は救う事が出来たのだろうか。


彼に思いや願いが届いたのだと、信じたい。
この涙が何よりもの証。
悲しい時や辛い時に涙は流れる、嬉しい時も・・・。
それだけではない、心が大きく揺れた時にも涙は流れるのだと初めて知った。
胸を熱くぐっと掴まれるようなこの感覚を・・・まさに人は感動と言うのかも知れない。


ありがとうと言いたいのは、俺の方だ。
あなたのお陰で、大切なものを思い出すことができたのだから。


『なぁおヴァイオリンの兄さん、他にも曲を聴かせてくれないか?』
『あぁ、それはいい。私はその前から聞いていたんだが、もっと聞きたいと思ってたんだ』
『コンサートホールのソリストにも負けないくらい、素敵な演奏だったわよ』


いつの間にか周囲からはアンコールがかかり始めていた。こんな事になるとは思っても見なかったが、照れくさくて心の中が熱くてくすぐったい。遊びを楽しむ子供のように心が浮き立ってくる感じが、とても心地よいとさえ思えるようだ。


「私からも、ぜひお願いします」


穏やかな笑顔を向けた老人に頷くと、月森はもう一度聴衆の前に立ち、ヴァイオリンを構えた。


『では皆様のアンコールにお答えして、もう一曲』


わーっと沸き上がる歓声の中で、弓が空を切り弦の上を滑らかに滑り出した。
未知の感覚に浮き立つ心を音色に乗せて弾むように、軽快に・・・先程とは変わって明るく楽しげな曲が奏でられる。
響き渡る音色に道行く人が足を止めて聴き入り、人の輪が少しずつ広がっていった。


懐かしい・・・この感じ。
何かに似ている、そう思ったら高校の頃、香穂子がよく学校や公園で演奏している姿を思い出した。
ステージはいつも地面の上で、青空と太陽というスポットライトを浴びながら楽しそうに奏でていた彼女。
自然に集った人々も彼女と同じように楽しそうで、明るい音色包まれながら、誰もが幸せそうだった。
そう・・・俺もその中の一人。


憧れながらもどこか心の底では、彼女には叶わないと羨ましかった。
俺には無いものだと、勝手に諦めて・・・。


あぁ・・・そうだったのか。


いつか見た君の周りと同じ光景が、今確かに俺の周りにも広がっている。
無かったのではなく、俺が自分で気付いていなかっただけなんだ。
気付かないだけでなく、あえてそうしようとしなかったのだと・・・・。


もっと上に・・・と、今まではただ自分のことを認めて欲しくて、闇雲に技術や表現力を磨いてきた。
子供の頃から、ずっと・・・。
誰に向けるでもなく、自分の為にしか奏でられていなかった音楽。
自分のことしか考えていなかったのだから、伝わらなくて当然だと思った。


香穂子に出会い、彼女が誰かのために奏でるという事を教えてくれた筈なのに、俺はそれを生かし切れてはいなかった。いや、いつの間にか忘れてしまったのかもしれない・・ヴァイオリニストとして一番大切なことを。
大切なたった一人の君に伝えるのも、多くの聴衆に俺の気持ちを伝えるのも同じ事なのに。
先生が言っていたことは、やはり正しかった。
結局彼女だけでなく、聴衆をも置き去りにしていたんだな。


ずっと目を閉じるばかりでなく、瞳を開けて周りを見渡せば、明るく軽快な曲に浮き立つように楽しむ人達の笑顔が、こんなにも俺のすぐ間近に溢れいてる。
集う人々の年代も恐らく国も違うはずなのに、誰もがみんな楽しそうで、差し込む秋の木漏れ日のように柔らかく穏やかで・・・・。
もしかしたら、きっと弾いている俺の顔も、彼らのように笑っているのだろうか。


音楽は、言葉を使わない会話だと思う。
聴衆の彼らが楽しそうだと、俺も自然と楽しくなる。
そして俺の楽しげな音色が、また彼らを楽しませることが出来のだと。
群衆の一人一人の心に自分の気持ちを伝え、そこから彼らが何かを感じ取ってくれたらこんなに素晴らしいことはないと感じた。


“音楽は俺の血の中にある・・・”


以前先生が俺に言っていた言葉が脳裏に甦った。
先生はきっと気付いていたんだな。いや先生だけでなく、陰から支えてくれていた友人達も。
俺が自分で答えを見つけだすまで温かく見守ってくれていた人達にと、泉のように溢れてくる感謝の気持ち。


確かにありましたよ・・・俺の・・・中に。
人が見せる優しさや親切に感じる、心の豊かさ。
溢れる自然、日々の生活の営み。
つまりはこの街に根ざす身の回りの全てが、音楽なんだ。


随分遠回りをした気がするが、やっと見つけた・・・俺の音楽。
今なら心から思える、音楽が楽しいと。


心は頭上に広がる秋の空のように高く、透き通って爽やかだ。雨上がりの街のようにキラキラと輝きながら。
いつも頭の中であれこれ考えて、簡単な筈の事を難しくしてしまったけれど、本当の自分はとても分かりやすく単純なのかもしれない。行く当てもなくどこか宙を彷徨っていた身体が、今しっかりと地に足が着いた心地さえする。


何よりも心のままに生きるのは、とても気持ちがいい。
本当は大好きなヴァイオリンを、楽しいと思う心のままに奏でることが。
同じように、君が好きだという想いのままに生きれば、もっと楽しくなるだろうか・・・俺も、君も。


深い霧に途方に暮れて立ちすくむ俺に正しい道を教えてくれるように、遠い海の向こうからいつも見守ってくれている香穂子にも、ありがとうと伝えたい。俺が道に迷うことなく歩いてゆけるのは、君のお陰だ。
もう、つまらない意地をいつまでも張る必要はないだろう。
だから今度こそは、音色も言葉も思いも・・・直接伝えようと思う。


今周りに溢れるどんなに沢山の聴衆に音色と気持ちを届けようとも、最後に残る一番大切なものは、香穂子だけにしか届けられないのだから。












夜明けの唄・後編