優しい光りに想いを込めて・9



『カホコ、荷物はまとまったかい? そろそろ駐車場へ行くぞい。どれ、大きなスーツケースはワシが持って行こう』
『はい、学長先生。ありがとうございます』


大きなスーツケースを手にした学長と婦人が、ステージ裏にある楽屋の戸口で香穂子へ呼びかけた。ヴァイオリンをケースに片付け、置いてあった荷物をまとめる香穂子の動きも、少しでもここへ長くいようとするかのように、名残惜しげだった。急かされた事に気付き慌しく周りにあった荷物をまとめると、ヴァイオリンケースを背負い、ハンドバックを掴んで、足早に扉へと向かう。


「あっ・・・これ、蓮くんのヴァイオリンだ!」


だが数歩進んだところでピタリと歩みが止まってしまった。音色だけで分かる・・・楽屋のスピーから聞こえてきたのは、オーケストラと奏でる協奏曲の力強く雄大な旋律、ステージで奏でる月森のヴァイオリンだったから。抱き締められるほど強く、熱く心震わす音色が身体に染み込み、堪えていた雫が再び瞳からじんわりと潤み始める。

進んでいたはずなのに、次の一歩が出てこない・・・。音色の向かう先が自分だと分かるのは、甘く締め付けられる胸の奥に、真っ直ぐ届き語りかけられていると感じるから。旅立つ最後の瞬間まで、音を心と身体の全てに刻み閉じ込めたくて。手の甲で涙を拭うと瞳を閉じ、流れてくるヴァイオリンの音色へ静かに耳を傾けていた。
カホコと何度も呼ぶ声に意識を引き戻され、我に返るまで・・・ずっと。


『・・・最後まで全てを聞かせてやれないのは、ワシも残念で仕方が無い。じゃが次に会った時には、残りの演奏を聞かせてもらうという、別れ際にレンと交わした約束があるじゃないか。会う楽しみを先へ取っておくのも、励みになるとワシは思う。今のカホコには、怪我をして入院されたご家族が日本で待っておるし、レンには挑むべき音楽がある。それを超えた時に、また再び二人の道は交わる・・・そうじゃろう?』
『そう・・・ですよね。音楽を大切にして欲しいから、お見送りは入らないよって言ったのは私なのに』
『オーケストラとのコンチェルト、技巧も際立ち華やかなこの選曲はレンらしいな。大学の課題とは別に、レッスンでも随分弾き込んでいたようじゃ』
『学長先生、ちょっとだけ時間を下さい。これで最後です、ほんの二〜三分でいいですから!』
『構わんが、何をするのかね』


学長が皺に刻まれた目を不思議そうに細めると、ありがとうございますと輝く笑顔で返す香穂子が、楽屋の中央に置かれたテーブルへと駆け寄った。ヴァイオリンケースを床へ置き、ハンドバックからペンと手帳を取り出し、丁寧にページの一枚を切り取る。ふんわりと漂う花模様が散らされたピンク色の紙に、短い時間の合間を縫ってペンを走らせていた。

開け放たれた楽屋の扉の前に佇む学長夫妻は、じっと香穂子を見守っている。月森へのメッセージを書いているのだろうと、手紙の向こうにいる相手へ語りかける表情の優しさですぐに分かった。ペンを置くとピンク色の紙へ想いを閉じ込めるように胸へ押し当て、それから口元へ運びそっとキスを届けるようにルージュを押しあてた。

月森のヴァイオリンケースに駆け寄り、二つに折り畳んだ手紙をケースの下へちょこんとはみ出すように置いた。愛しい眼差しを注ぎながら、手の平がケースの表面をゆっくり撫でると、雨上がりの煌きが灯る微笑で何かを小さく語りかけている。戸口で見守る二人に言葉は聞こえないけれど、柔らかい表情と口の動きにつられて頬が緩むのは、思う気持全てが宝物だという彼女の気持が溢れてくるから。


「蓮くん、行って来ます。またすぐに会えるって信じているから、バイバイとかまたねみたいに、お別れの挨拶は言わないよ。ただいまって帰っきたら、お帰りなさいで迎えて欲しいな」


月森や大切な仲間のいるこの国へ残りたい・・・ずっと音楽に触れていられたら幸せだろうな。
深呼吸をして楽屋へ流れる彼のヴァイオリンを胸いっぱいに吸い込むと、香穂子は最後の名残惜しさを振り切るように、真っ直ぐ届く音色へ応えるように精一杯笑顔を浮かべる。背負ったヴァイオリンケースと手に持った鞄を強く握り締めながら前を見据えて、楽屋の扉を開いて待つ学長夫妻の元へ駆け出した。

心配かけてごめんなさいと、そう言って学長と婦人に謝る香穂子を、二人は優しい陽だまりで両側からそっと肩を抱き、楽屋の外へと導く。扉が閉まる前にもう一度だけ肩越しに楽屋の中を振り返り、ステージにいる月森へ想いを馳せなが、彼のヴァイオリンケースへ微笑みを注いだ。





* * * *




客席後方に設けられた録音機材に囲まれた、小さな空間から生まれる音の世界。収録したばかりの音源を再生して確認し、楽譜を見ながら互いの意見を出し合う。一つずつ丹念に積み重ねてゆく作業地道な作業・・・音楽に妥協は一切無い。時には譲れない信念がぶつかり合う事もあるけれど、演奏者が作り出す原石をマスタリングや編集といった技術者が磨き上げ、一枚のCDという音の宝石が生まれるんだ。


・・・? 香穂子?
今、香穂子に呼びかけられた声が聞こえたんだが、気のせいだっただろうか。


『レン、どうしたんだい? 急に宙を見つめて、ひょっとして何かいるのかい?』
『いえ、何でもありません。俺から伝いたい事・・・作りたい曲のイメージは、これで全てです』
『じゃぁもう一度最初から通してみようか。ブースから聞いている分には、ソロとオケのバランスはさっきのでいいと思うよ。協奏曲はソロだけでなく、オケにとってもこだわりの集結なんだ。・・・なんて以前僕が学長先生から聞いた受け売りだけどね。全てが調和したときにホールへ響き渡るこの曲の中には全、ての人に確かな幸福を届ける要素がぎゅっと詰まっているんだよ。もちろんきみの大切な人へもね』


楽譜を示しながら指揮者とプロデューサーと進めていた話も、ようやく一区切りがつき、残るは最後の一曲のみとなった。シャツの袖をずらして確認した右腕の時計が示す時間に、僅かな焦りと小さく溜息が零れてしまう。出発まで間に合うかもしれない、僅かばかりの期待との葛藤鬩ぎ合うこの苦しさは、どうやったら沈められるのだろうか。

駄目だ・・・今は音楽に集中しなければ。見送りはいらないからと、そう言って客席を去った香穂子願いを裏切る事になってしまうじゃないか。眉間に皺を寄せたり歯軋りしながら奮闘していても、何の解決にもならない・・・とにかく落ち着かなくては。


演奏中にこの場所、この瞬間に意識を留めるのは難しい。だからこそ日頃の修練や精神力が必要になってくる。だが香穂子の事を思うたびに心は乱れ、時には甘く甘美な音色を奏でるんだ・・・君に恋したと自覚し始める前からずっと。こんな時こそ目は常に音楽を向き、心は弓と弦との接点に合わせよう。それが俺と君との心を繋ぐ道になる、そうだろう?香穂子。





椅子から立ち上がりヴァイオリンを持った月森が、同席していたオーケストラの指揮者と共にステージへ向かってゆく。後姿を見送るヴィルヘルムは話し合う彼らの輪から外れ、一歩外側から全てを見守るように一列後ろの座席に座っていた。眉を寄せた難しい顔をしながら睨むように腕を組み、宙を睨み据えている。放って置かれて拗ねたのだろうかと、肩越しに振り返ったブロデューサーの青年が、ヴィルヘルムへミネラルウォーターのボトルを差しだした。


『怖い顔してどうしたんだい?ヴィル。 トイレに行きたいのなら、我慢せずに入っておいで。それともレンの演奏に何か言いたい事があるのかい?』
『違うよ! トイレでも演奏の事でもない。おせっかいだと分かっているけど、こんな時なのに・・・もう時間がないのに何も出来ない自分が悔しいんだ。俺はまだ諦めないぞ。ドイツが誇るサッカーだって、ハーフタイムのラスト一秒まで決勝ゴールの行方は分からないんだ。カホコのフライトまで絶対に間に合う、間に合ってみせる!』
『サッカーは僕も好きだな〜音楽やっていなかったら、サッカー選手に・・・はなれないだろうな。しかし君よりも、レン本人や彼女の方が落ち着いて見えるけどな』
『だからじれったいの! 理性で抑えているものほど、内側は熱いんだぜ。すぐにも空港へ行きたいけど俺だけ先に行っても意味は無いし、音楽の方が今は大事だし・・・この葛藤が苦しいんだよ』


開いた両手をわななかせ、鬩ぎ合う苦しさをゼスチャーと表情で伝えるヴィルヘルムに、プロデューサーの青年も録音ブースにいるスタッフが、堪えきれずに小さく噴出した。笑ったな!と頬を膨らませて拗るけれども、一人で熱くなっているのではと、時折ふと一人落ち着くと不安になってしまう。きっと二人だって俺と同じように・・・いやそれ以上に熱い想いを抱えているだろう。


海を離れているからなのか、彼らの性格なのか。我慢して堪えることに慣れてしまった・・・そんな気がする。もちろん忍耐は必要だけど、熱さを秘めながらも、それを上手く表に出すことが難しいような気がするんだ。だからこそ二人が思いのままに羽ばたけるように、外から透明な殻を突付きたい。でもそれは彼らだけではなく、自分が飛び立つための殻でもあるのだから。


『そうだ!ビンチックさん、お願いがあるんだ』
『なんだい? 君のお願いはいつも突然でビックリ箱だから、もう多少の無理難題では驚かないよ』
『今日は車で来ているんだろう? スピードも乗り午後地も良い、新車のBMWなんだって俺は知ってるぞ。なぁ、その車でレンと俺をテーゲル空港まで乗せていって欲しいんだ。演奏が終ったらすぐに! タクシーやバスじゃ間に合わない・・・仕事で抜けられないならせめてカギを貸して欲しい』
『ヴィルが運転するのかい?』
『もちろん、この間運転免許を取ったばかりだけどね。兄さんたちやレンは一度乗ったんだけど、命が惜しいからってなぜか二度目は渋るんだよ〜酷いよな。俺、凄く安全運転なのに。でも車内でのおしゃべりと音楽、居眠りは禁止。俺の気が散るし、車は皆で動かすものだからね』
『・・・・・・』


自信溢れる笑みで胸を張るヴィルに、差し出しかけた車のキーを引き戻して深い溜息を一つ吐いた。二言三言交わされた後で、喜びをいっぱいに表す抑えた歓声が挙がった。大きく尻尾を振りながら無邪気にはしゃぐ犬のように、椅子から飛び上がり抱きつく勢いで身を乗りだす。レンの演奏次第だけどね・・・そう言いながらポンポンと頭を撫でてあやすと、用意の整ったステージで指揮者のタクトが振り下ろされ、華やかなオーケストラの前奏が始まった。

ほら始まったと耳元で囁かれる声に、動きを止めてじっと見守る視線の先では、指揮者の側に立つ月森のヴァイオリンに、弓が下ろされる・・・。弓と弦から生まれ溢れ押し寄せる音の波に飲まれ、息を止めてしまいそうな程に。