優しい光りに想いを込めて・8
持てる全てをヴァイオリンに込めて出し切った今は、後悔も思い残すことも何もない。伝えたい言葉や気持ちは音色に乗せ、君へ伝えた。構えていた楽器を肩から下ろすと、全力で駆け抜けた後のような爽やかな風が心の中へ吹き抜け、熱い火照りを冷ましてくれる。大地のようなフロアーと、緩やかな二本の曲線を宙に描く上層階。ステージから見渡す客席が広く見えるのは、馬蹄形に膨らんだ構造をしているせいもあるのだろう。大きな袋が溢れる音色や響きを閉じ込めている・・・そんな気がする。
届いただろうか、君に・・・俺の想いが。君はどう思っただろうか、答えを聞かせて欲しい。
だが落ち着きを取り戻すにつれ、じわりと膨む不安がせ高まる期待とせめぎ合い、葛藤を生む苦しさが胸を詰まらせた。ステージに立つ自分の正面に座る香穂子を見つめれば、交わる眼差しの強さと声が距離を超えて届いてくる・・・心へ真っ直ぐに。感情のままを素直に現す瞳を潤ませ、胸の前でぎゅっと手を握り合わる君は、ひょっとして涙を流しているのだろうか。
泣きやんで欲しくて、君の泣き顔や涙ごと俺が吸い取りたくて。抱き締めようと無意識に動いた一歩が留まったのは、学長先生に何かを語りかけられ、大きく頷いた香穂子が立ち上がったから。見つめる先にいる俺へ、今いくから・・・と見えない声を届けたすぐ後に、確かめるより早く弾かれたように動き出した。
「蓮くんーん!」
「香穂子!?」
客席の天井に大きく輝くシャンデリアの太陽の下で、一際輝くもう一つの太陽・・・香穂子だけが鮮やかな色を持って浮かび上がってみえた。今度は確かに聞こえた香穂子の声は、ここにいるよと俺に居場所を知らせるように。潤んだ瞳を笑顔で煌めかせ、俺のいるステージを目指して赤いビロードの絨毯を、子犬のように真っ直ぐ駆け寄ってくる。椅子を抜け通路へ出てと、遠回りに辿り着くもどかしさは、まるで今の俺達のようだ。
頭で考えるよりも早く身体は自然にステージの際へと進み出ていた。背後から声をかけられるまで、気付かないくらい君に引き寄せられていたんだ。いつの間に傍へいたのか、肩越しに振り返ればブルーグリーンの瞳で見つめるヴィルヘルムが両手を差し伸べている。その手は何なのだろうかと眉を寄せた俺へ、逆に問い返すような笑みを浮かべ、視線で手に持っていたヴァイオリンを示した。
『レン、君の大切なヴァイオリンは俺が預かろう。両手が塞がっていたら、カホコを抱き締められないだろう?』
『いや・・・しかし・・・』
『音色だけじゃなくて、自分の口から伝える確かな言葉で伝えるのも大事だよ。相手に届けて、自分も聞いているその言葉は、今を見失わない為の足跡になるって思うから』
『ヴィル・・・』
『ほら、学長先生も手を振ってるぞ。せっかくレンとカホコの為に最後の時間を作ってくれたんだから。空港まで見送りに行けないかもしれないんだ。メールや手紙でも伝えられるけど、目の前に相手がいるって大きいと思う。次はいつ会えるか、まだ分からないんだろう? 今の気持ちは今伝えなくちゃ、きっと後悔するぞ』
先程まで香穂子が座っていた辺りに目を向ければ、俺達に向かって手を振る学長先生が見えた。もう片手で掲げたヴァイオリンは香穂子のものだ。ヴィルのようにヴァイオリンを預かり、行っておいでと、そう言って香穂子の背を優しく叩いて送り出してくれたのだろう。どうやら二人とも、考えることは同じらしいな。投げかけて受けとめて、また返して・・・人から人へと受け継ぎ育てていく想いが、音楽も心も大きく豊かなものにしてくれる。
やはり予想通りに、もう時間が来てしまったのだな。また会えると分かっている、これが最後ではないのに・・・君と過ごした短い夏の思い出が、光りの渦となって蘇り溢れてくる。
感謝を込めて深く礼をすると、隣で手を振り返すヴィルヘルムに向き直り、自分の愛器を託した。
『すまない。少しの間だけ、頼む』
『おう、任しておけって! さぁ行ってこいよ、カホコがもうすぐこのステージに辿り着くぞ』
ふわりと笑みを浮かべた眼差しに背中を押され、示される先に香穂子姿を捕らえたら、身体の中で何かが弾けるのを感じた。君への曲を奏でたときと同じ熱さが身体を動かす・・・心のままにと。始めは大きく早足でステージを横切っていたが、押さえきれず次第に駆けだしていた。ステージ端に設けられた階段を飛び降りるように通路へ降りると、調度真っ直ぐ駆け下りてきた香穂子と正面に出会った。
切れた息を肩で呼吸しながら整える香穂子と、言葉無くただ瞳を交わしたまま見つめ合うひととき。言いたいことがあるのに、上手く言葉に出てこない・・・たくさんありすぎて、何から伝えたらいいか分からない。だが君に伝えたいことはたった一つ、長い迷いの中でやっと見つけた本当の答え。
互いの熱さを孕む沈黙が一つに溶け合い、線香花火の玉のように膨らんでゆく・・・静かにゆっくりと。やがて心の中で弾けた想いは、心の空で鮮やかに描く花火となった。
「蓮くんの演奏、すごく素敵だった・・・。特に最後の曲は胸が熱くなって、涙が止まらなかったの」
「香穂子・・・」
「初めて聞いた曲だったから、何という名前の曲か知りたくてこっそり学長先生に聞いたの。蓮くんが作った曲なんでしょう、凄いね! タイトルは教えてくれなかったんだけど、誰を想って作ったのかは、向かう音色の先にあるから分かるっていってたの。それは私・・・なんでしょう? だからずっと黙って秘密にしていたんでしょう?」
「あぁ、最後の曲は君を想った時に溢れてきた音楽と、俺の想いを形にした曲だ。俺のヴァイオリンは、いつでも香穂子へ真っ直ぐ向かっている」
「・・・っ、ずるい。蓮くんずるいよ・・・」
高まった感情のせいなのか、掠れた甘い吐息で語る香穂子の瞳が、潤みを湛えくしゃりと歪む。その先が見えなかったのは君が俺の胸に飛び込み、強くしがみついてきたからだった。俺が腕に攫い、閉じ込めるよりも早く。
胸に押しつけた顔から聞こえるのは、しゃくり上げながら呪文のように何度も呟く声・・・。ずるい、ずるいよと詰りながらも、背中へしがみつく力が次第に強まるから拒絶でないと分かる。離さないと引き寄せるように、指先の一本一本で抱き締めるような感覚に、背筋を甘い痺れが駆け上った。
瞳を緩め微笑むと、駄々を捏ねて拗ねる子供のように泣きじゃくる君を、両腕を持ち上げそっと背中を抱き締め返した。どうか泣かないで欲しいと耳元で優しく囁きながら背中をあやし、穏やかな呼吸を導いてゆく。
「ずるいよ、蓮くん・・・いつも大事なことは教えてくれなくて、ぎりぎりになるまで私に黙っているんだもん。嬉しいことも寂しかったことも、みんな・・・。今までの中で一番大きくて、嬉しいびっくり箱だったよ」
「黙っていてすまなかった。本当は全てが完成してから伝えるつもりだったが、想わぬなりゆきで先に届けることになってしまった。だがCDではなく、直接俺の音色で伝えられて良かった」
「帰る間際に、こんな熱くて真っ直ぐなラブレターもらうなんて予想もしなかったよ。しかも本人が目のまで読み聞せてくれてるんだもの。大好きと一緒にもう離さないって言われたら私・・・日本へ帰れ無くなっちゃうじゃない」
「君を帰したくない、もう二度と手放したくない・・・この先もずっと。だから音楽も君も手に入れると誓ったんだ。たった一人の君という存在が、俺の中で何人分もの大きな力になる。音楽を極める道は果てしなく孤独だが、君という光りがあったから俺は、暗闇の先に大きな光りを見つけることが出来たんだ。共に成長し合い、幸せを分かち合える喜び、君がくれた一つ一つに感謝と、好きだという想いを伝えたかった」
笑顔も泣き顔も拗ねた顔も、いろんな君の全てが愛しいから、どうか顔を上げてくれないか? もっと君を見つめていたいんだ・・・今この時を君の存在と想いごと心へ刻みつけたい。優しいヴァイオリンの音色で音色で語りかけるように香穂子の名前を呼ぶと、シャツに伏せていた顔をゆるゆると上げてくれる。ほんのり染まった顔と、涙で濡らしてしまった俺のシャツを恥ずかしそうに気にする、そんなささやかな仕草さえも・・・君を想う心や俺へ向けてくれる気持ち全てが宝物だ。
「届いたよ、曲に込められた蓮くんの言葉と想いが。真っ直ぐで大胆で熱くて・・・とっても恥ずかしくなるけど、そんな私を優しい微笑みで抱き締めてくれる。たくさんの小さなありがとうは、やがて大きな幸せになるんだよ。今朝お家を出るときに学長先生が言っていたの。蓮くんの小さなありがとうが、たくさん私の中で集まったからすごく幸せだよ」
「君のヴァイオリンを聞くたびに、音楽は凄いなと思っていた。嬉しいことや楽しいこと、喜びだけでなく寂しさや切なさも恋しさも・・・心を自分で鳴らすことが出来るのだから。俺の音も、心の声も伝わったんだな」
「ありがとう蓮くん、大好きだよ。私もヴァイオリンで今の気持ちを伝えたいな、その代わりに言葉と抱き締める強さでしかつたえられないけど・・・いっぱいいっぱい伝えるからね」
腕の中から振り仰ぐ大きな瞳から透明な雫が零れ、赤く染めた頬を筋を描きながら濡らしてゆく。頬を手で包み指で雫を拭い去ると、くすぐったそうに微笑みを浮かべ指先へ擦り寄ってくれる。だがはっと我に返り、しゃくり上げた顔を見られるのが恥ずかしいのか、再びぎゅっとしがみついてしまった。思わず愛しさに瞳や頬が緩んでしまうのは、先程とは違うくぐもった声が胸を震わせ耳に届いてきたから。
大好きだよ・・・私も離れない、離さないからと呟きながら抱き締める腕の力が次第に強まってゆく。香穂子の想いの証であり、俺の音色が届いた答えが温かい幸せとなり、また俺の中で大きな力へと変わるんだ。大切なものが増えるたびに俺は強くなれる・・・君のために、そして二人のために。俺達のゆく道は、終わりのない果てしないものではないと、そう思えてくる。
「ねぇ蓮くん、曲のタイトルを教えて? 学長先生に聞いたんだけど、蓮くんに直接聞きなさいって教えてくれなかったの」
「あの曲のタイトルは・・・」
「タイトルは?」
腕の中からちょこんと振り仰ぐ香穂子が、興味津々に瞳を輝かせてくる。書いたラブレターを本人の前で読み上げるようで、今更のように恥ずかしく思えてしまう。それだけではなく少なく限られた人数とはいえ、親しい人たちやレコーディングのスタッフがいる事に改めて気づき、急に顔へ熱さが込み上げてきた。
つい感情に流されてしまい、二人だけの世界に入っていたのだと、君はまだ気付いていないらしい。香穂子はステージだけを見ているが、俺の目の前には客席の広い光景が広がっている違いがあるのだろうか。ならばそのままで構わないかと心の中で苦笑しつつ、抱き締めていた腕を緩め解き放った。もうすこし抱き締めていたいのにと、微かに甘える君に心が揺らぎそうだが、このまま抱き締めていたら本当に君を帰せなくなってしまうから。
瞳の奥を見つめ頬を引き締めると、香穂子も何かを感じ取ったのか、いそいそと身体を離し姿勢を正す。真摯な想いを、今度は確かな言葉に乗せて君に伝えよう。
「タイトルはエテールノ、イタリア語で永遠という意味があるんだ」
「エテールノ・・・! 曲も素敵だったけど、名前も素敵だね!」
「永遠というものが本当にあるかどうか俺には分からない。音楽も君と育む想いや絆も、甘えることなく初心を忘れず、二人で努力をし続けるのが大切なのだと俺は想う。その積み重ねが受け継がれ、色褪せずに日々積み重なって続くからこそ、永遠といわれる物語になるのだろう。温かく幸せな君との日々も、ずっと永遠であり続けたい」
「蓮くん・・・」
「あともうすぐで俺は夢の一つを手に入れることが出来る。そうしたら今度は俺が君に会いに行こう。もう一つの夢を手に入れるために・・・二人で歩むために」
夜の後に朝が来るように、暗闇の先にも光りがある。
目指すのはここ・・・俺であり君、俺達という場所。海を隔てながら互いに頑張る今が無駄ではないと、咲いた花に懐かしく今を思える日が、きっとくると信じている。音色が俺達を繋いでくれるから、そうだろう、香穂子?
瞳を緩め微笑みを注ぐと、見開かれた瞳が煌めく雫を湛え始めた。それでも一生懸命笑顔を浮かべる君の瞳に、希望を示す虹が浮かぶ。深呼吸をして風を身体に吸い込み、高鳴る鼓動を押さえながら、音色に託した言葉を今度は自分の耳でも聞こえる、確かな言葉が紡ぎ出す。
香穂子、君を愛している・・・と。
ヴァイオリンと弓は一つのものを分けあった、互いに無くてはならない大切な存在。
身体を離したばかりなのに、再び胸に飛び込みしがみつく君を深く深く腕に閉じ込め抱き締めているのは、俺達も二人で一つの一つのヴァイオリンだからなのだろう。
奏でよう二人で。色褪せることのない未来と、恋の音色を。