優しい光りに想いを込めて・10
ここでいいよ、ありがとう・・・と。抱き締めた腕の中から振り仰ぐ香穂子は、涙でほんのり赤く染めながら掠れた吐息で囁き、精一杯の笑顔を浮かべていた。腕の力を僅かに緩めた隙間をするりと抜け出すと、ヴァイオリンを奏でる俺の手を取り、両手でそっと包み込む。胸の前に掲げ祈るように、心にある言葉を温もりに変えて伝えるように。
ステージから降りて別れを惜しんでいる間に、背後ではソロと合わせるオーケストラの用意が進んでいた。ステージを背にする俺は気づかなかったが、肩越しに視界が広がる香穂子からは見えたのだろう。もう行かなくちゃ・・・と、そう言ったのは彼女に背後でヴァイオリンを持ち、優しく見守る学長先生夫妻に対してだったのか。それとも俺に語りかけていたのだろうか・・・。後から思えば、その両方だったのかも知れないな。
楽屋口まで見送りたかったが、歩みかけた脚を引き止めるようにヴィルヘルムが、託していた俺のヴァイオリンを差し出してきた。真っ直ぐ見つめる視線から、予定が詰まっている事を無言に知らされ、客席を去ってゆく彼女をステージから見送るしかできなくて。演奏を楽しみにしているよ、どこにいても蓮くんのヴァイオリンをちゃんと聞いているからねと、声はもうとどかない距離なのに心へ直接響いてきた声。目を凝らすとドアの向こう側へ消える直前に振り返った香穂子が、輝く光を讃えた笑みを向けていた。
このまま空港まで・・・いや、せめてホールの駐車場で車に乗り込むまで見送りに行けたらどんなにか良かっただろうか。惜しむ気持や手放したくない気持だけが募る中にも、これで良かったんだと心の片隅に言い聞かせている自分がいる。今俺が集中すべきは音楽だ、俺の全て・・・俺自身を形作るもの。プロのヴァイオリニストになる夢を叶えるもの、君の隣へ並ぶのに恥しくない男になる為に。
香穂子もそれを分かっていたから寂しさを振り切り、見送りはいらないと去っていったのだろう。真っ直ぐな光りを宿す瞳は、信じてくれる証だと君が教えてくれる。夢は見るものでなく叶えるもの、互いに信じる想いが願いを叶えるのだと、笑顔に変えてくれた君へ俺も応えよう。揺ぎ無いヴァイオリンの音色が導く暗闇の先に、光りが見えるだろうか? きっと君と俺の道は寄り添い交わっていると・・・信じている。
あと一曲・・・これで全てが終わる、そして始まるんだ。
一流のオーケストラでソロを奏でるのは国際コンクールのファイナル以来だな。香穂子に聞いて欲しかったが今は、君への想いを込めた曲が届けられただけで良かったと思う・・・持てる全てを込めたから後悔はない。あれこれもと欲張っていては目的を見失い、本当に望んでいた夢が手に入らなくなってしまう、そんな気がする。たった一つに全ての言葉と想いを込めて、それを少しずつ積み重ねれば、きっと二人で歩む道となるだろうから。
大人になるに連れて周囲はめまぐるしく変わるけれども、俺たちらしく少しずつゆっくりな歩みで着実に、一歩ずつ君へと近付こう。忍び足で歩み寄る春の気配のように、最初は遠い囁きでもいつの間にか側にいて、温もりで包みこもう、風となって君に届けよう。
指揮者のタクトとヴァイオリンの弓が、力強く同時に空を切った。僅かな沈黙は、客席に響く余韻に音の世界か現実へ戻るための時間。終了を知らせる合図が後方の録音ブースから上がると、ブラボーの歓声と共に大きな拍手がどっと沸きあがった。
終わった・・・のか?
真っ白に輝く光の世界からゆるゆると戻る俺に、いい演奏だったとにこやかな笑顔で初老の指揮者が手を差し出してくれる。しっかりと手を握り返しながら礼を述べ、側にいたコンマスへも向き直り差し出された手と握手を交わした。心で繋がる音楽の縁というのは深いから、この先もきっと彼らと共に奏でる機会があるかも知れない。一瞬一瞬の触れ合いの力が春の風のように、優しく俺の中を吹き抜けててゆき、清々しい爽やかさに自然と頬が緩むのを感じる。この風が君にも届いただろうか。
『レーン!』
『・・・ヴィル?』
大きく名前を呼ばれ、声のする方に目を凝らせば、客席に座っていたヴィルヘルムが勢い良く通路を駆け下りてくる。只ならぬ気配に周囲はざわめき、視線を一心に集める彼は赤い絨毯の上を音もなく駆け抜け、あっという間の速さで大きな歩幅で飛ぶように。俺の立つステージへ辿り着くと、舞台脇にある階段を数段飛ばしで飛び乗り、息も切らさず俺の前にやってきた。
一体どうしたのだろうかと、勢いに押され驚くのは俺だけでなく皆同じらしい。息を潜めて伺う気配を俺まで浴びるのが、少しばかり居心地が悪いのだが・・・。
『レン、お疲れ様! ここに聴衆がいたらブラボーの声が止まなくて、今頃アンコールに応えている頃だ・・・っておっと。感想は後でゆっくり語らせてもらうから』
『あぁ、いい演奏が出来たと思う。いろいろ協力してくれた君にも、礼を言わなくてはいけないな』
『礼はいいから、それよりも疲れてる所を悪いけど、すぐにここを出発しよう!』
『どこへ行くんだ?』
『今ならぎりぎりまだ間に合う、カホコのフライトまでに空港まで着けるぞ! プロデューサーのビンチックさんが、空港まで車を飛ばしてくれるんだ』
『・・・・・・・本当なのか!? だが終わったといえ、今俺がここを離れる訳には・・・』
『細かい話や打ち合わせは車内とか、また戻ってから場所を変えてやろうと言ってたよ。さぁ、演奏会のアンコールを始めよう。さっき学長先生には携帯で連絡したんだ、きっとカホコもレンが来るのを待ってくれている』
『・・・すまない、すぐに支度する』
難しく考えている暇は無い。今は一刻一秒を争うんだ、後悔はしたくなかった。理性よりも情熱がもたらす行動のが先にある自分に驚いてしまうが、これも香穂子に出会ってから生まれた俺なんだと思う。名前を呼ばれて振り返れば学長先生とは旧知の仲だという初老の指揮者が、行っておいで・・・と。タクトを振っていた時の気迫溢れる姿とは別人のような穏やかさで、皺に刻まれたにこやかな笑みを浮かべている。
俺の肩越しに視線で示す先は、楽屋へと続く下手の舞台袖。感謝の気持を込めてまずは指揮者へ、そして共にコンチェルトを奏でてくれたオーケストラへ向き直り、心の底から溢れる感謝をこめながら深く礼をした。
『レン、急ごう!』
舞台袖から俺を呼び、早くと急かすヴィルヘルムの声に、香穂子の声も重なったような気がした。短いバカンスを終え帰国の為に空港へ向かっている筈なのに、距離を遠く離れるほどに君の存在が大きくなり、まだすぐ側にいるように思えてくる。手を伸ばせば遠ざかり、掴んだと思えば消えてしまう幻の君を・・・耳に残る音色を、留学してから何度追い求めてきただろうか。確かな君を今度こそ、この手に抱き締めたいから・・・君に導かれ、考えるよりも早く体が動き出していた。
薄暗い舞台袖を駆け抜け、白い壁に囲まれた細い通路をひた走り楽屋へ辿り着く。俺がヴァイオリンを片付ける間に、ヴィルヘルムが手早く二人分の荷物を整えてくれていた。
片付けたヴァイオリンケースを持ち上げた時に、ひらりと宙を舞ったピンク色の蝶に動きが止まり、視線が奪われた。こっちだよ・・・と。悪戯にひらひら舞う姿は、無邪気な香穂子そのものな愛らしさだったから。どうやらヴァイオリンケースを持ち上げるときに床に落ちてしまったらしい。折りたたまれたピンク色のメモ用紙を拾い上げ、高鳴る鼓動を抑えながらそっと広げると、驚きや嬉しさが混ざり合う熱い波が堰を切って押し寄せてくる。
思わず頬が緩んでしまうのは、心へ感じた予感どおりに、綴られていたのは見覚えのある彼女の直筆とメッセージだったから。このメモ帳は、香穂子が愛用しているスケジュール手帳のものだ・・・彼女が残してくれた心の欠片。楽屋へ戻ってから、時間の迫る慌しい出立の中で書いてくれたのだろう。短いけれども冬を溶かす陽だまりのような温もりが詰まったメッセージと、大好きだよの言葉と一緒に押し当てられた、ナチュラルローズのキスマーク。
--------行って来ますのキス、出来なかったら便箋に残しておくね。いつでも蓮くんにキスが届けられますように。ただいまって戻ってくるから、今度はお帰りなさいで迎えて欲しいな。そしたら本物のキスをしようね------
行って来ます・・・か、前向きな香穂子らしい言葉だな。ならば今度君と再会したときに、おかえりとそう言って君を迎えようか。微笑を注ぐように緩めた眼差しを向け、掲げ盛ったメモ帳を自分の胸に抱き締め押し当てた。彼女がくれた口付けを受け止め、そして俺からも返すように。
ピンク色のメモ帳とキスマークが優しく空気を震わせ、俺の中へ温かさがゆっくり満ち広がるようだ。丁寧に折り畳みシャツのポケットへ仕舞うと、小さな君が真っ直ぐ振り仰ぎ微笑みかけてくる・・・そんな気がする。
『レン、用意は出来たか?って、やけに嬉しそうな顔しているな。思いっきり緩んでいるぞ』
『いや、その・・・何でもないんだ、香穂子からの書置きを読んでいただけで・・・。地下の駐車場で待っていてくれているんだったな、俺たちも急ごう』
『ふ〜ん。ところでこの楽譜も鞄の中へしまうのか? 二重奏とレンがカホコへ贈った曲みたいだけど、真新しいからレンのじゃないよな。まさかカホコの忘れ物って訳じゃなさそうだし』
『あぁ、それは鞄の中へ・・・いや、俺がこのまま持って行く。間に合ったら香穂子へ手渡したいんだ。曲の全てはCDが完成してからでないと届けられないが、奏でた音色と同じく俺の想いを込めた手書きの楽譜を、彼女に届けたいと、そう思って用意をしてあった』
香穂子に会うため学長先生の家を訪ねたときに、先生が婦人からプレゼントされたという大切な楽譜を見せてもらった事があった。それを元に学長先生が二人で奏でられるようにアレンジを重ね、優しい旋律は温もりの二重奏として姿を変えていた。届けた想いがいつまでも色褪せずに残るだけでなく、大切な人と音楽を分かち合う事が出来るのは、とても幸せだと思う。
だから俺も自分の楽譜とは別に、香穂子へ贈るための譜面を用意していたんだ。見えない音色だけでなく、形に残る楽譜でも贈りたい・・・いつの日か二人で奏でたいと願って。
ずっと持っていたのに手渡すきっかけが掴めなかったが、渡すチャンスは今しかない。彼女が帰国する前に渡さなければいけないのだと警鐘のように訴える、見えない声に急かされ鼓動高まる。
『もしも間に合ったらじゃないぞ、間に合わせるんだ。空港でも走るから覚悟してくれよな。学長先生が、きっと出発ロビーで引き止めてくれているさ』
『・・・そうだな、俺たちも急ごう』
ヴァイオリンケースを背負い、ヴィルが片付けてくれた鞄と楽譜の置かれた机へと歩み寄った。持ち上げようと伸ばしかけた手を留め、心の在り処を辿るようにゆっくりと譜面の表面を撫でてゆく。綺麗なリボンもラッピングも無いけれど、大切なプレゼントに心のリボンで不器用な蝶を作りながら、クリアーケースに入れてゆく。
少しの間、また互いに海を離れてしまうけれど、ヴァイオリンが俺たちを繋ぎ、前に進む力になると思う。二人で奏でた旋律や、君の為に奏でた想いの音色たちが、俺たちを繋ぐ絆となり前に進む力となるから。俺は君を想いながら奏でよう、君も奏でてくれるだろうか。心の中にある互いの音色と重ね合わせれば、一つに重なったあの胸の高鳴りが蘇るだろう。
君へ届けよう、この想いをもう一度・・・。