優しい光りに想いを込めて・7



心の深呼吸をしよう。
余計な力を抜けば、奏でるヴァイオリンの音色が透明な翼となり、どこまでも行ける風になれる。
香穂子、心の窓を開けてくれないか? 君の元へ行くから・・・。
そこへ新しい風を入れよう。俺の想いと、たくさんの幸せで満たすために・・・。


太陽の笑顔を思い浮かべながら、君が幸せであるように願った時、優しくなれる自分がいた。
君がくれた気持ちは今も変わらず俺の中にある。だが願うだけでは駄目なんだ、叶えなければ。
右腕のボウイングが伝えるのは現実を切り開く力、そして弦を奏でる左手は俺の感情・・・想う力。
一つの物を二つに分け合ったヴァイオリンや手が、重なり合って生まれる音楽や世界は、無限の広がりを見せる。

ならば俺達がつくる未来も同じだと思う。寂しさも悩みも暗闇も、全ては俺達が作り出したものだから、明けない夜が無いように出口のない迷路もない。だから歩きだそう、俺と共に。
闇の中から一歩踏み出せば、新しい命が生まれる・・・その鼓動が、君にも届いただろうか? 


奏でる俺の音色に春色の優しさが加わったのは、きっと香穂子も一緒に奏でてくれているのだろう。
言葉が届き受け取ってくれた証、音色と心のハーモニーを。浮き立ち弾むこの感覚は、君の返事だと信じても良いだろうか。心の眼差しを空へ向ければ・・・ほら、ステージを眩しく照らす太陽のようなライトを背負った君が見える。俺が作った透き通る光りの翼を、ふわりと羽ばたかせて。

宙を浮くような感覚に包まれる俺も、きっと君と同じ翼があるのだろう。海を越えいつでも君に会えるな・・・音色と緩めた眼差しで語りかけると、俺の周りを楽しげにくるくる飛び回る香穂子が微笑み、光りのヴァイオリンで応えてくれた。


届けよう・・・俺の想いを、世界で一番大切な君に-------愛していると。







『学長先生・・・』
『ん? どうしたね、カホコ』
『蓮くんが呼んでる・・・私に語りかけてくる。私、行かなくちゃ・・・』
『カホコ・・・?』


演奏中に吐息のような囁きで呼びかけられ、ふと我に返ると、隣に座るカホコへ視線を向けた。だが呼びかけたワシに気付いているのかいないのか、スポットライトを浴びながらステージの上で奏でるレンを、瞬きも忘れじっと見つめている。本人は無意識だったのだろう。半ば夢心地での呟きと真っ直ぐ注がれる眼差しは、彼が奏でる音色の世界へ取り込まれているように見える。


耳に口元を寄せ内緒話のように、小さな囁きでもう一度名前を呼びかけてみた。だが返事の代わりに、行かなければ・・・と、こちらを向かずそう呟やき、ゆっくり瞳を閉じると両手で胸を押さえてしまう。閉じた瞳から煌めく透明な雫が溢れ出し、頬を濡らし描く一筋の軌跡。届いた音色を大切に抱き、心の奥へ閉じ込めるように・・・自分の中で溢れてゆく煌めきと熱さにに耳を澄ましながら。


彼女は一体、どこへ行こうとしているのだろう。不思議に想ったがそうか、瞳を閉じた心の中は、真っ直ぐ注がれるステージへと繋がっているに違いない。カホコの反対側に座る妻も気付いたらしく、心配そうに見つめておる。ひょいと首を巡らせ、大丈夫じゃと視線で語りつつステージを示せば、意図を解したようでにこりと微笑み、慈しむ眼差しを彼女へ注いでいた。




一皮剥けて煌めきを纏うピアノが広く豊かに支え、未来へ向かう希望となったヴァイオリンが鮮やかに歌う。
二つの光りがステージから溢れ、広い客席を海のように満たしてゆくようじゃ。この音色の海は心地良いな。
寄せては返すさざ波が、また大きなうなりとなって押し寄せるを繰り返しながらワシらを取り込み、音色と一つになれる・・・そんな気がする。


曲がクライマックスを迎えて高まりを見せると、最後の一音に想いの全てを込めた、レンのが弓が大きく弧を描く。少し後ろで奏でるピアノではヴィルヘルムが鍵盤に乗せた手を、ゆっくり高く羽ばたかせた。
余韻の中に訪れる一瞬の沈黙は、曲の世界から現実へ戻るための時間じゃ・・・ワシらも、奏でる彼らも。
客席の照明が明るさを取り戻し、天井から降り注ぐシャンデリアの煌めきが姿を現すと、沸き起こった大きな拍手とブラボーの声。

客席にいるワシらやスタッフから、そして次の出番を待つオーケストラメンバーが集うステージ袖から沸き上がる止まない拍手に、はっと意識を取り戻したカホコも閉じていた瞳を開けた。時に生の音楽は、言葉よりも雄弁に想いを語る物ものじゃ。朝露のような雫を湛え、紅潮した満面の笑顔で精一杯の拍手をする彼女に、レンの想いが届いたことは一目で分かる。良い演奏じゃった、二人とも・・・と心の中で唱えながら、ワシもステージヘと眼差しを向けて拍手に言葉を乗せた。


『学長先生、今蓮くんが弾いていた曲は何という曲なんですか? 初めて聞きました、こんな素敵な曲があったなんて知らなかったです。誰が作った、どんな名前の曲なんだろう。クラシックとも現代曲とも違う・・・どんなに時が流れても変わらないものを感じます』
『ほう、実は完成品を聞いたのはワシも初めてじゃ』 
『とても優しくて穏やかなメロディーなのに、可愛かったり熱かったり、いろんな表情が見えてくる。今まで蓮くんの演奏を聴いて、心が震えることは何度もあったけどそれ以上で。どう言ったらいいんだろう・・・胸が熱くなるんです、私の心がここにあるんだって教えてくれるみたいに。私の中が蓮くんで溢れてしまいそう』
『カホコはこの曲が好きかね?』
『はい、大好きです!』
『それは良かった、レンも喜ぶ・・・』


大きな瞳は天井を彩どるシャンデリアよりも煌めいていて。両手を握り締めながら勢いで身を乗り出し、ほんのり赤く染まった頬で興奮気味に感想を述べるカホコに、落ち着きなさいと微笑みながらやんわり宥めれば、小さく舌を出して肩を竦めた。自然と瞳や頬が緩むのを感じるのは、自分の事のように嬉しいからじゃ。


『聞いた事が無くて当然じゃな、この曲は、レンが作った曲じゃから。人を想う心は時に音色となって鮮やかな色彩をもたらすんじゃ。誰を思って作った曲なのかは、歌う旋律や向かう音色の先が教えてくれるじゃろう。初々しくて聞いているワシの方が照れるのう、ワシにもそんな若い時代があったわい』
『えっ・・・!?』
『レンの心が見えたじゃろう? 彼が想い描く、ワシの目の前におる誰かさんの姿も・・・のう、カホコ?』
『私今の曲は、蓮くんが私の為・・・に!?』


驚きに目を見開き、呼吸も時の流れも一瞬止まる。そのままゆっくりステージを振り向き、ヴァイオリンを持ってワシらを・・・いや、見たこともない穏やかな微笑みでカホコを見つめるレンを瞳に映した。ステージと客席で離れる距離があっても、しっかり結びつく二人の視線。やがて固まっていたカホコの表情がくしゃりと歪み、肩が小さく震え始め、止めどなく一つまた一つと涙が零れてゆく。


『タイトルは・・・おっと、ここは黙っておくべきかな。後はレンから直接聞きなさい。ほれ涙を拭いて、お前さんが泣いているとレンが困ってしまうぞい。カホコには、笑顔が一番よく似合う・・・きっとレンもそう想っておるぞい』
『あっ、はい。そうですよね』


鼻をすすりながら瞳を潤ませてはいるが、一生懸命浮かべる笑顔の晴れやかさは、雨上がりの太陽のようじゃ・・・きっと虹も見えるかも知れんのう。はっと我に返り、慌ててポケットからハンカチを探っているが、なかなか見つからないらしい。ならばワシのを・・・とポケットに手を入れたが反対側にいた妻の方早く、花柄のハンカチをそっとカホコへ差し出した。むぅっ、先を越されてしまったわい。


『カホコさん、これを使って?』
『奥様、ありがとうございます・・・』


目を見開いてハンカチを見つめていたが、掠れる吐息を零し受け取ると、大切そうに握り締めて。ほんのり赤く染ます目元を拭えば笑顔の花が綻んだ。花びらのように重なる微笑みが一つ、そしてまた一つ・・・。答えはいつでもそこに、カホコとレンの心の中にある。迷ったり悩むこともあったじゃろうが、もう答えは出ている筈なんじゃ。あとは決断出来る時を待つだけ。

演奏が終わったステージの上に佇むレンは、カホコに愛しい眼差しを向けながらも、持てる全てを出し尽くしたすがすがしい表情をしておる。背後のピアノにいるヴィルヘルムと遠く視線が合い、俺はどうかと興味深そうに聞いてくる声が心の中に届いてきた。もちろんお前さんもじゃよと、良い演奏じゃった・・・小さく頷きながら頬を緩めたら、僅かに照れたように見えたのは気のせいかのう。


だが時間は無情にも迫っておる、スーツの袖を捲って腕時計を確認すると、息を詰まらせる苦しさが込み上げてきた。返したくない・・・このまま時間が止まればいいのにとの願いとは反対に、大きく進んでしまった時間が心に重くのし掛かってくる。耐えるように眉を寄せ、小さく息を吐きながら袖を戻すと、楽しそうに妻と談笑するカホコへ向き直った。


『さっきの素敵な演奏に取り込まれて、まだふわふわしているんですよ。蓮くんの曲、もう一度じっくり聞きたいな。聞く度にいろんな景色が見えて、また新しい気持ちが沸くと思うんです』
『カホコ・・・残念じゃが、ワシらはもう帰らねばならん』
『えっ! 今の曲で最後って事ですか? もう、空港に行かなくちゃいけない時間なんですか!?』
『これでも限界まで時間を引き延ばしたんじゃよ。カホコの膝の上にあるヴァイオリンも、荷物のある楽屋に戻って片付けねばいかん。EU内の移動と違い、出国や税関の手続きになど、いろいろ時間もかかる。急な帰国が決まったから、まだお土産も買っておらんじゃろうに。ヨーロッパまで来たのに、手ぶらで帰るわけにはいくまい』
『で、でももうちょっとだけ駄目ですか? 私、まだ蓮くんと一緒にいたい、ヴァイオリンが聞きたい・・・あと一曲でいいんです、お話しもしたいのに』
『帰りを待つ親御さんの為にも、これ以上出国を伸ばすわけにはいかんのじゃよ。レンもそれを分かっていたから、残された時間で何が出来るか彼なりに考え、今この曲を奏でたんじゃとワシは思う』
『蓮くん・・・・・・・・・』


しゅんと悲しそうに落とした肩から、赤い髪がさらりと零れ落ちた。膝の上に置いたヴァイオリンを愛おしそうに撫でながら、重ねた音色や彼の言葉を思いだしているのだろうか。泣きそうな瞳で萎んでしまった表情も、次第に落ち着きを取り戻し穏やかな微笑みに変わってゆく。ちらりと肩越しに振り返れば、機材に囲まれた中から立ち上がり、こちらの意図を察したかのように両手で手でOKサインを作ってくれていた。

時間を作ってくれた事に感謝の言葉を届けながら、片手を上げて返事をすると身体を戻し、俯くカホコの肩にそっと手を乗せた。ポンポンと軽く叩いてあやすと、伏せられていた顔がゆるゆると振り仰ぐ。ヴァイオリンを抱きながら何かを言いかけるものの、上手く言葉ならないもどかしさで困った顔をしている。むりに言葉にしなくても良いのじゃよ、そう微笑みで語りかけながら、うんうんと頷くワシに小さな笑い声が零れ始めた。


『全ての出来事は次に繋がるかけがえのない経験じゃ、寂しさもいつか幸せの種になる。今レンがカホコへ自分の思いを音色にして届けたのも、カホコが受けとめたのも・・・帰らなくてはいけないのも。お前さんたちの未来へ続くためには必要で、一つ一つ大切な意味があるんじゃ。目先の寂しさだけに捕らわれてはいかん、これで終わりではないのだから・・・そうじゃろう?』
『はい・・・!』
『さぁ、今度はカホコ受けとめた想いを返す番じゃよ。レンがステージで待っておる、行って伝えてきなさい』
『学長先生・・・っ、ありがとうございす。私、行ってきますね』
『なぁに、恋人同士の大切な時間を作るくらいはあるから安心しなさい。と言っても、短いものですまないが・・・気になるなら、ワシらはステージに背を向けるぞい。ほれ、ヴァイオリンはワシが預かっていよう』


恭しく差し伸べた手に託されたヴァイオリンをワシが受け取り、花柄のハンカチは妻の気持ちとして、そのままカホコへ託された。すっと姿勢良く立ち上がり、ステージに立つレンを真っ直ぐ見つめれば、離れた場所にいる彼が驚いたように目を見開くのが分かる。羽ばたく直前の煌めきを秘めた横顔を振り仰げば、懐に飛び込む光景を想像して、思わずワシまで頬が緩んでしまうんじゃ。

器用に座席をすり抜けて広い通路へ出ると、忙しなく求めて止まない想いのまま、早く辿り着きたいとばかりに、赤い絨毯の上を軽やかに駆け抜けていった。彼の待つステージへと向かって・・・。




全ての道は、君たち自身へと繋がっておる。
信じられるものがあるのは、ただそれだけで幸せな事じゃと思う。
互いに信じるあえる想いは心を強くしてくれる・・・それは相手だけでなく、自分自身にもかける魔法の力------。