優しい光りに思いを込めて・6



見つめる視線の先には、少し離れた客席に香穂子が座っている。距離はあるのに、すぐ傍で聞いているような近さを覚えるのは、反らせぬほど真っ直ぐ注がれる瞳の力のせいなのだろうか。客席へと引き寄せられそうな脚を留めながら瞳を閉じて、自分の中に音の世界を作り出す準備を調えた。

芸術家に必要なインスピレーションには、霊感と同時に「息を吸う」という意味があるという。大きく息を吸い込めば、この場の空気に溶けこむ一体感に包まれ、身体の底から高まる熱意。重い身体を軽くするだけでなく、緊張や気持ちを解放してくれる・・・遠く高く羽ばたくために。

ゆっくり瞳を開き、ステージに立つ俺を見つめる香穂子をもう一度心に焼き付けた。


『レン、調弦するだろう?』
『あぁ、音を頼む』


背後から聞こえた声に踵を返し、静かにピアノへ歩み寄ると、鍵盤に手を置くヴィルヘルムも用意が調っている。ヴァイオリンを構えたのを合図に、人差し指が控えめに鳴らした音が空間に吸い込まれ、真っ直ぐ奥へと響き渡った。全ての弦を調え終わり一度楽器を降ろすと、ピアノの上に広げられている伴奏の譜面から一枚を手に取り、ヴィルへと手渡した。続いてもう一枚・・・そして最後にもう一枚。

受け取った譜面たちを眺め、返事を笑顔で返した彼は、俺が何も言わなくても分かっているらしい。渡した順番通りに並べ直して静かに揃えると、身体をずらして俺へ向き直った。


『じっくり聴かせて欲張らずに3曲か・・・時間があればアンコールでやろう。おっ! 良かった、レンが作った曲もちゃんと最後に入っている。これだけは絶対に、生で香穂子に聞かせなくちゃって俺も思っていたんだ』
『全ての曲を順番通りに香穂子へ奏でたいが、残りの時間は数曲が限界だろうな。まずはこの曲たちで頼む。曲数は少ないかも知れないが、ここは確実を狙いたい』
『レンや香穂子たちと同じくらい、俺も自分の事以上に浮き立ったり緊張しているんだ。だけど心が動くのって良いことだよな。動いた分だけ風が起きる、自分の心が動かないと相手の心も動かせないって想うから』


鍵盤の前にある譜面台へ建てかけると、少し伸びたかな・・・と眉をしかめて呟ぎながら譜面を捲り始める。癖のある前髪を邪魔そうに掻き上げているブロンドが、スポットライトを浴びて光りに溶けこんでいるようだ。以前庭の日だまりに溶けこむ彼を見た香穂子が、光りの固まりだねと。そう言う彼女も、日だまりの笑顔で喜んでいた光景がふと脳裏に蘇った。

苦笑しつつやんわり否定していたのは、それぞれ心の内に抱えた物は違うから・・・本人は自分の光りに気づけないのだろう。心の傷に触れたのではと、後で香穂子は自分の無邪気さを責めていたが、奏でる音楽は想いの数だけ深く響いていると俺は想う。それを光りと言うのかは分からないが・・・。


『レンは今、幸せかい?』
『・・・は?』


ピアノの椅子に座るヴィルは、立っている俺とは視線の高さが違う。振り仰いでいる筈なのに、同じ位置から瞳の奥を射抜かれている・・・そんな光りを瞳に宿していた。演奏前に突然どうしたのだろうかと不思議に思いながらも、暫しの間考え真摯に答えを返した。


『・・・幸せ、だと思う。君が俺の伴奏を引き受けてくれたこと、この場所で演奏出来ること。何よりも音色を届けたい大切な人が、俺の演奏をすぐ傍で聴いてくれるから』
『真っ赤に照れるカホコが、よくレンに向かって膨れているのをみるけど、気持ち分かるよ。レンは真っ直ぐで、時折俺でも照れ臭くなるんだ。レンの直球を受けとめるカホコは、毎日心臓がドキドキして大変だろうな』
『・・・質問したのは君だろう?』
『そうだったな、すまない。ヴィルさん今は幸せですか?って、カホコから同じ質問された事があったんだ。レンも一緒にいたから覚えているだろう?』
『あぁ・・・確かこの夏に、学長先生の家へ行った時だったな。探していた香穂子をやっと見つけたあの日・・・。久しぶりに会った君への最初の挨拶が、その言葉だったのを覚えている。彼女も心配していたんだ、君の事を』


窓から吹き抜けるそよ風のように、さらりと心へ吹き抜けた言葉だった。今の俺と同じく、なぜ脈絡もなくそんな事を聞くのだろうと不思議に思っていたけれど。ヴィルヘルムはきょとんと見開いた瞳を緩め、微笑みを浮かべたまま「香穂子は幸せかい?」と・・・答えをはぐらかすように質問し返ていたな。人差し指を顎に当てながら、しばらく考えた後に、「はい、とっても幸せです!」と自信に溢れる笑みで答えていた彼女を思い出す。

隣にいた俺は集まる視線に頬へ熱さを感じながらも、愛しさと誇らしさで煌めく笑顔の香穂子を見つめていた。
結局答えをはぐらかされたままだったのだが、素直な香穂子は話の流れを上手く丸め込まれ、気付いていなかったらしいど。幸せは一人一人の心の中にあるから、誰とも比較することは出来ない・・・そう分かっているけれど。彼女の素直な問いかけは、ヴィルの傍にいる者なら誰しも一度は問いかけたいと思いつつ、ずっと躊躇い心へしまい込んでいたのだから。


『あのときは答えなかったが、今なら応えられるよ・・・俺も幸せだとはっきりとね。いろんな優しさがあるように、甘く優しさに満ちた時間だけが幸せではないんだって。常に目標を持ち続けて進むこと。一つ一つをクリアーしながら積み重ね、高みを目指す生き方なんだろうな・・・君たちのように』
『香穂子が聞いたらきっと喜ぶ。俺だけでなく、できれば彼女にも直接伝えて欲しい』
『また失ってしまう事を想うと、当たり前の日常になるのが怖かった。だけどそれは違う、当たり前になったら幸せじゃなくなるんだよな・・・だから常に追い求めなくちゃいけない。レンがカホコに届けるように、俺もみんなに届けるよ。君たちや学長先生や、星になった彼女へもね』


良い演奏をしようと、晴れやかな笑顔で差し伸べられた手をしっかりと握り締めた。今このステージに香穂子がいたら、きっと笑顔で飛びつきこの手に重ねていただろう。
自然に緩む頬のまま、ちらりと肩越しに客席を振り返った・・・心の手をここに重ねて欲しいと呼びかけながら。


出会いの中で大切な君が・・・香穂子が俺にも教えてくれたんだ。
音楽と、生きていくことの喜びと素晴らしさ・・・そして愛しさを。
愛するために誰もがここにいる、大切な人を守れるように。もっと優しく強くなるために。
いつかこの手にヴァイオリニストと君という二つの夢を掴み取る為に、俺も光りの方へ手を伸ばそう。







ヴァイオリンを構えた月森がピアノへ視線で合図を送り、ヴィルヘルムと互いの呼吸を合わせた。ピアノの鍵盤を指がしなやかに滑ると、ヴァイオリンと同じく彩りに溢れた音色が次々に生まれ出す。身体をピアノから客席へ向き直すと、瞳を閉じ弓が静かに弦へ降ろされた。




俺を内側から温める温かく優しい色、さっき香穂子と奏でた音色が、俺の中に宿っているのを感じる。君と一緒に奏で終わった後には、いつも優しい気持ちになっている自分に気付いたのは、一体いつの頃だったろう。

相手の音に反応して応え、共に語り合いながら良い響きを導き出し、自らも来るべき瞬間に一歩を踏み出す。
互いに音を積み重ねながら一つの曲を作り上げるのは、人と人との出会いや気持ちに似ている重ね方に似ていると思う。


君に伝えたいものがある・・・目には見えないこの胸にある想いや音色。どれも形は無いけれど、だからこそどんな形にもなるし、好きな色で染め上げる事が出来るんだ。いや、君の色に染まった俺を届ける事が出来ると言った方が良いだろうな。君は俺の事を真っ直ぐで照れ臭いと言うけれど、素直な君だって俺の心に飛び込み驚かせてくれるんだ。新鮮で心地良くて、もっと求めたくなってしまう・・・君の声も聞かせて欲しいのだと。


言葉では照れ臭い表現や、もどかしくて上手く伝えきれない想いもあるけれど。奏でるヴァイオリンに乗せれば、自然に響かせることが出来るんだ。強ささや激しい気持ち、穏やかな心や甘い囁きも、喜びや悲しみまで言葉に表しきれない繊細な心の動きまで。たった一言の短い言葉よりも、強く雄弁に。


学内コンクールで出会い、君と音色を重ねる内に生まれたほのかな想い。懐かい思い出の曲を奏でれば、あの時感じた想いや心の甘い痺れごと鮮やかに蘇ってくる。君はどうだろうか・・・届いただろうかこの胸にある想いが。 

恋する方法を知らなくても、それが恋だといつの間にか気付いていたあの頃は、友情と恋の狭間で揺れ動き、もどかしさを音色に乗せた事もあった。初めで手を繋いだり、キスをした時に感じた一瞬の戸惑いや、触れ合った時に沸き上がった言葉にならない幸福感。音楽は台詞のない物語だとするならば、俺の奏でる音には香穂子との思い出が積み重なっている。



右手の弓と弦を奏でる左手で語ろう、音楽が結びつけた絆・・・心を伝えあえる相手に出会えた幸せを。
俺たちの心を繋ぐのは、愛よりも強いメロディーなのだと。