優しい光に想いを込めて・5
ステージの上で一つに溶け合う二本の弓が、同時に弧を描いた。音色の余韻が響く中、ゆっくり静かに月森と香穂子のヴァイオリンが降ろされると、感嘆の溜息を吐くような・・・息を呑む一瞬の静寂がホールを包み込んだ。
やがて沸き立つのはヴァイオリンが奏でる旋律を引き継ぐかのように、温かく歌う拍手たち。穏やかなさざ波となって、ホールとその場にいる人々の心に満ちてゆく。
初めは驚きに目を見開いていた月森と香穂子も、互いに瞳を交わすと笑顔が綻んだ。背伸びをしつつ首を巡らす香穂子の頬がぱっと花開くと、後ろを見て?とそう言う視線に促された月持ちも肩越しに振り返った。舞台袖に集まり、ステージ脇まで顔を覗かせていたのは多くのスタッフたち。嬉しそうな視線を送る香穂子と二人揃って深く礼をすれば、奏でる拍手もいっそう大きな高まりをみせる・・・心地良い音楽となって。
君と奏でるひとときの夢は希望に変わり、光となって道の先を照らしてくれる。そして教えてくれるんだ。俺がずっと探していたものは遠くでなく、ここに・・・俺と君の中にあるのだと。
『ブラボー!』
『・・・ヴィル?』
『ヴィルさん! あ!学長先生も!』
すぐ近くで響く拍手に気付きステージ前方を見れば、楽譜を小脇に挟んだヴィルヘルムが、客席からの階段を昇ってくる。照明が落ちた客席から光の中へ、ブラボーとそう言って現れた彼の後ろには学長先生も一緒だ。磨かれた木の床へコツンコツンと静かに足音を響かせる二人へ、香穂子が軽やかに駆け寄って行った。
真摯に厳しい姿勢で、俺たちの演奏を見守ってくれた学長先生が、頬を綻ばせているのは期待に添えた証だろうか・・・届けられたのだと、そう思いたい。演奏後の興奮が収まらないのか、目を輝かせながら身振り手振りを交えて語るのを、皺に隠れる瞳を細めながら頷いているから。
ポンと飛び込んでいく香穂子を笑顔で受け止める学長先生に、つられて緩む頬を感じていると、隣に佇むヴィルが視線で語りかけてくる。自信溢れる笑みから声が聞こえてきそうだな・・・俺の言うとおりだったろう?と。
誘われるようにゆっくり彼らの元へ近づくと、足音に気付いて振り向いた香穂子が、満面の笑みを浮かべていた。喜びと楽しさと、君の努力がもたらした充実感をいっぱいに現して。
『レン、コンサートさながらに拍手が鳴り止まないね。これはアンコールかな?』
『確かに君の言うとおりだったな。最高の演奏が出来たと思う、俺も香穂子も。香穂子もヴィルも、君たちは俺に本当の優しさを教えてもらったと言っていたな。厳しさや真摯さ、本気で対等に相手でぶつかること。だが俺も教えてもらったんだ。本当の優しさは、自由な心の中にあるのだと』
硬い床にコツンと足音が響き、彼女の隣に肩を並べると、真っ直ぐヴィルヘルムを見つめた・・・確かな意思を持って。最初はきょとんと目を丸くしたが、はにかみながら人差し指で鼻の下をこすっているのは、彼の照れ隠しなのだろう。緩めた瞳を隣にいる香穂子へ注ぐと、俺を振り仰ぎ見つめていた視線と重なり、こくんと深く頷いた。吸い込まれそうに澄んだ光と輝きが、心へ言葉を伝えてきた。
彼女も同じ気持ちでいる・・・互いに共鳴し合うのが分かるから、こんなにも嬉しくて心地良いのだと思う。
全てを曲に注ぎ込んだ反動なのか、それとも曲に引き込まれたまま、まだ戻りきっていないのか。君が興奮を抑えきれないように、俺もいつになく気持ちが高まり、ふわりと浮き上がる感覚に包まれたままだ。
全てヴィルの思うように事が運んでいる気がするが、心の底では俺が望んでいた事だ。隠し押し込めていた俺の心から見つけ出した彼が、動いてくれたから今がある。なぜ他人の俺たちにそこまで関わるのかと思うが、彼はただ、そうしたから動くのだろう。香穂子や学長先生と同じだな、心のまま風のように。
『レン、カホコ、二人とも素晴らしい演奏じゃった・・・ありがとう。演奏前よりも、いい顔しておるぞ』
『えっ! いい顔・・・ですか? やだ私ったら、そんなにほっぺが緩んでますか?』
『カホコ、少し違うのう。瞳に力が溢れておる、硬さが取れて自由になった・・・どこまでも飛んでゆけるそんな感じがするんじゃ。今までいろいろ悩んだりもしたじゃろう。その中で良いとか悪いとか、自分で勝手に決めつけ心を窮屈にしておったんじゃないのかね。それでは音楽は羽ばたくことが出来ない、心もな』
慌てて頬を押さえた香穂子の目線に合わせ、屈み込んだ学長先生が、瞳の奥へ届けるよう見つめている。ヴァイオリンが楽しいからつい緩んじゃうんです・・・と、困ったように頬を染めていた顔がすっと引き締まり、やがて満開の花を綻ばせた。心と共に君の音色が羽ばたくのだと、俺もそう思う。
君の瞳に映る俺も、同じ顔をしているのだろうか? 心にふと沸いた疑問が聞こえたのか、耳に届いた声に視線を戻せば少し悪戯で、だが温かい笑顔が降り注いでいた。レンも、いい顔しておるぞ・・・じんわり染み込む言葉が熱を生み、くすぐったいほど顔へ集まってくるのを感じた。
『学長先生・・・』
『どうしたね、レン』
『俺たちの演奏、どうでしたか? 先生の心に届いたでしょうか?』
全てを出し切ったから後悔はないが、審判を前に挑む気持ちとはこんな気持ちなのかも知れない。じっと真摯に見つめると、皺に隠れた瞳が静かに力強く頷いた。ほんの一瞬だが長く感じられた沈黙の後で、求められた演奏が出来た答えなのだと分かる。俺の緊張が解けて安堵の吐息が零れるのと、隣にいる香穂子の肩が、喜びで小さく跳ねたのが同じだった。飛びつきそうな君が振り仰げば、交わす視線が交わり、互いの言葉が直接心へ届いてくる。
『これからの君たちが楽しみじゃ。ワシも新たな目標を立てないといかんのう。君たちの演奏は宇宙じゃな』
『宇宙・・・ですか?』
『大地のステージに立ち、右手の様々なボウイングから意思やエネルギーといった火が生まれる。これが心に当たり、風は心・・・つまり空気となって包み込む。左手から生み出す全ての感情が水となって、音楽やワシらを潤すんじゃ。もちろん君たち自身もな』
以前にも、ヴァイオリンは小さな宇宙だと言っていたのを思い出す。音楽が宇宙とはどういう事かと眉を寄せたが、全てを生み出す自然そのものなんだろう。他の人が言えば大きな話だと思うが、学長先生の言葉はストンと心に染みこみ広がってゆくのが不思議だ。奏でることによって、新しい何かを生み出せるなら、こんなに嬉しい事は無い。
そうか、だから香穂子の音楽は心を震わせ、俺にたくさんのものを届けくれるんだな。
一歩近づいた学長先生が俺と香穂子の手を取り、重ねて包み込むように握り合わせた。多くの人を惹き付けてやまないヴァイオリンの音色を生み出す手。長く節ばり、しなやかな筋肉に覆われた力強い指から託される温もりと想い。
『手を繋ぐと温かいのう、温度だけでなく心が温めてくれるからじゃ。傷つけ合ったり悲しい想いをするために、この手があるのではない。ヴァイオリンを弾く手、抱き締め合う手じゃ・・・。この温もりが音を生み出すのだと、忘れないで欲しい』
『学長先生、ありがとうございます』
『レン、次は君の演奏じゃな。ワシらと、そして誰よりもカホコに伝えて欲しい。そろそろ用意をしなくてはいけないのではないかね、後ろのピアノで、ヴィルのやつが待ちくたびれておるからのう。さぁカホコ、ワシらは帰るぞ』
『えっ!? 帰るって・・・もう飛行機の時間ですか? そんな・・・せっかく一緒に演奏できたのに、もっと蓮くんの演奏聴きたいのに。お願いです、もうちょっとだけでいさせて下さい! お土産買う時間が無くても、構いませんから』
帰る、その一言に止まっていた時が一気に流れ動き出す。
君だけを見つめ、演奏に集中していた間はすっかり失念していたが、香穂子の帰国まで時間が迫っている事に改めて気付かされた。笑みは消え去り大きな瞳を見開く君が数歩前に飛びだし、学長先生の懐から見上げている。食いつく勢いで真っ直ぐ振り仰ぎ、切ない程の願いが伝わる必至さで。冷たい水を浴びたような衝撃が襲い、鼓動が苦しく高鳴り出す・・・まだ聴かせたい曲があるのに、もう少し傍にいたいのに。
『そんな泣きそうな顔するでない、ワシまで泣きたくなってしまうじゃろう? まだ時間はあるから安心しなさい。これからは残された時間の限り、客席でレンのヴァイオリンを聴くとしよう。ほれほれ、ぼうっとしては聴ける曲がどんどん無くなってしまうぞい。カホコ、ワシはレンに話があるから先に戻ってくれんかのう。妻が寂しがっておる』
『あ、それは大変! そうですよね、急いで客席に行かなくちゃ』
ステージを降りようと踏み出したが、ぴたりと脚を止め、くるりと俺を振り返った。引き寄せ合うように互いに弾かれ、香穂子が駆け戻り、思うよりも身体が反応して俺は君へと足早に歩み寄った。ヴァイオリンを持っていなかったら、そのまま抱きとめていただろう。
「じゃぁ蓮くん、私学長先生と一緒に客席で聴いてるね」
「あぁ・・・君のために奏でよう、俺の想いを込めて。最高の演奏をしてみせる」
「うん! 楽しみにしているね。あの、私のお見送りとか、気にしないで音楽に集中して欲しいな。だってまた会えるって信じてるもの。電話もメールもするし、手紙も書くし・・・ね?」
一生懸命笑顔を浮かべているが、最後の方は切なげに潤みかけ言葉を詰まらせて。胸に秘めた想いが押さえきれずに溢れてしまっている。それを零さず俺が受けとめるんだ。耐えきれずに唇を噛みしめて俯いてしてしまったが、香穂子と優しく名前を呼ぶと、涙を振り払う温かな微笑みが振り仰いだ。
蝶のようにひらりと身を翻らせ、振り返ること無く軽やかにステージを駆け抜け階段を下りてゆく。彼女の背中をじっと見送る俺の隣に、いつの間にか佇み一緒に見送っていた学長先生に問いかけた。香穂子を先に返したのは、本当の事を俺に伝える為なのだろう。俺も、聞きたかった・・・聴かなくてはいけないと思ったんだ。
『時間は、あとどれくらいありますか? 香穂子へ、聴かせたい曲があるんです』
『レン・・・時間があまり無いのは正直なところじゃ。ソロを数曲聴く時間はあるじゃろう、じゃがオケとの協奏曲までは難しいじゃろうな。途中でひっそり抜け出す事になるかも知れん。レンにも今のうちに挨拶をと思って、ワシも来たんじゃ』
『状況によっては、見送りも難しそうですね・・・』
『むぅ・・・そこは何とも。後はレンとヴィルの集中力次第じゃろう。一発でOKを出すこととしか、ワシには言えん』
「・・・・・・・・・・・・」
『では、ワシも客席へもどるとしようかの。カホコと音色を重ねた後だから、きっと素敵な演奏が聴けるじゃろうな、楽しみじゃ』
大きな手がぽんと肩を叩くと、穏やかな笑みを浮かべた瞳が真っ直ぐ俺を射抜いていた。
ゆっくりと手が離れ静かに立ち去り、やがて照明が落ちた客席へと背中が溶けこんでゆく。
薄暗がりの中でも俺の視線の先、ちょうど正面の客席に香穂子が座っているのが見えた。隣の夫人と楽しげに歓談する君へ、俺からも君が見えていると。心へ語りながら微笑めば、視線が重なり返事のように笑みが返ってくる。ステージから見る暗がりの客席であっても、夫人に耳打ちをされ、手をばたつかせながら慌てだした。
何を話しているのか分からないが、心が温かくなる・・・そんな照れる香穂子がすぐ目の前に見えるようだ。
彼女を挟むように席へ辿り着いた学長先生が、二人に迎えられながら腰を下ろした。
曲の順番を考えなくてはいけないな、後少しで何ができるだろうか。後悔はしたくない、想いの限り全てを音に乗せて伝えたい。一曲一曲に二人の思い出が詰まっているから、全てを順に奏でたいが・・・そうだ。CDの一番最後に納める曲、俺が香穂子の為に作った曲は君に聴いて欲しいと思う。音場よりも確かな想いが、そこにあるから。
焦りと緊張で、早く駆けするアレグロの鼓動が耳から聞こえてくる。だが焦っていては、どんなに良いことがあっても見逃してしまうと君は教えてくれたな・・・そうだろう?
俺たちを繋ぐ音色が教えてくれたんだ。先のことは分からないが、今この瞬間が真実なのだと。
一生懸命輝き、ひたむきに生きる今の連続が、未来へと続いている・・・そう信じている。
だから奏でよう、心のまま君のために。