優しい光に想いを込めて・4



後は二人だけで・・・と自分の演奏を託したヴィルヘルムが、月森と香穂子だけをステージに残し、赤い絨毯が敷かれた客席通路を音もなく駆け抜けてゆく。例え自分が不在でも、この二人なら大切なステージを預けられると「信じているから。何の混じり気もないこれからが、本当の彼らの世界が生み出されると言っても良いだろう。


視界の隅に客席へ座る学長先生夫妻を映しながら、辿り着いたのは奥にある録音機材が溢れるスペース。印の付いたスコアが何冊も開かれ、ヘッドホンを付けた技術スタッフが忙しなく機材を調整している。機材のディスプレイに映る鼓動のような音の波・・・彼らが付けているヘッドホンから聞こえるのは、たった今閉じ込めたばかりの音たちだと思った。レンやカホコの音色が宝石なら、彼らは更に輝きを生み出すための職人だろうな。
音色の魅力を損なわず、最大限に生かして形に残す・・・聴く者の心を捕らえ、すぐ側で奏でているように。


音楽を共に奏でる喜びと聴く楽しみの、二つを味わえる俺はとても幸せで贅沢なんじゃないかって思えてくる。二人の演奏を早く聴きたい、さっきの興奮をもう一度味わいたいと気が逸り、いつの間にか演奏者から聴衆へと変わっているんだ。そう思っているうちに、音源を確認しながら打ち合わせ中のプロデューサーのヘッドホンに耳を近づけようと、俺は自然と身を乗り出していた。ヘッドホンに耳をぴったり寄せていた俺をふいに振り返り、予想外に近くにあった顔に目が大きく見開くかれる。驚いたそのの顔に、俺の方が逆に驚くじゃないか。


『うわっ、びっくりした〜! いきなり振り向かないでよ。鼻先が触れ合うドキドキは、可愛い女の子だけで充分だから』
『・・・っ驚いたのは僕の方だよ。何だヴィルヘルム君か、いつからそこにいたんだい? もう〜脅かさないでくれよ』
『あっ、すみません! つい演奏が気になってしまって、聞こえるかなって。脅かすつもりは無かったんですよ。どうですか? レンとカホコの演奏、ちゃんと録れてます?』
『もちろん、打ち合わせた通りにしっかり録らせてもらったよ。後でレンに君との演奏と聞き比べてもらったとき、どちらを使うかは彼次第だけどね。これはこれで貴重な演奏だから、例え使わなかったとしても、特別に音源を形に残すつもりさ。非売品だけど、彼らには内緒のお楽しみでね。もう少しレンたちと一緒に弾くかと思っていたのに、早かったね』


耳に当てていたヘッドホンを外し、ブラウンの髪の毛を掻き上げながら笑みを浮かべて。驚いたと大きくゼスチャーをしたけれども、本当はさほど驚いていないとはすぐに分かった。一見すると音楽家というよりもスーツの似合うビジネスマン。ヨーロッパでも屈指のレーベルを担う若手の敏腕ときいているのに偉ぶる所もなく、気さくで友人・・・いやそれ以上に頼れる兄のような人だ。レンにとってはどんな人なのかは聞いたことが無いけれど、きっと似たような親しさを感じているに違いない。だからつい俺も、からいろいろ話してしまうんだろうな。音楽だけじゃなく好きなサッカーチームとか、夢とか希望とかも。

一つの音楽を作る為に集まった者たちに感じる同じ波動。伝えようとしている事を真っ直ぐに受け止め、的確に汲み取ってくれるから。語り合い、一緒に作っていくのが楽しい・・・そう思えるんだ。


『少し休憩、お邪魔虫は退散。これ以上一緒にいたら焦げちゃうよ。本当は最初から二人だけでって思っていたんだけど、ピアノがないと止まってしまう曲もあるし。エンジンかかって温まったから後は大丈夫。それよりも、俺の言ったとおりだっただろう? 伴奏は俺で良いけど、二重奏は俺じゃ駄目だって』
『君たちにも良さがあるから、駄目ではないと思うけどね。だけど・・・そうだな、予想はしていたけど僕も驚いたよ。さっき一人で弾いていたリハーサルや、ヴィル君と弾いていた時とはレンの音色が違う。優勝したコンクールやガラコンサートの時とも違う、休日の運河沿いで奏でていた時の音色だな・・・彼女を見つめる瞳のように温かだ。』


お疲れ様の言葉と一緒に差し出されたヘッドホンを受け取れば、興奮に頬が全開で緩むのを感じた。耳に当て瞳を閉じれば、中から聞こえるのは先程レンとカホコが奏でた音色たち。良かった・・・目経ち過ぎてしまいそうなのが心配だったけど、俺のピアノもちゃんと伴奏に徹しつつ個性を出して支えているじゃないか。奏で合う笑顔が浮かぶように心が弾み、優しく穏やかで一緒に嬉しくなってしまう。


そうこの音色、この音楽・・・あくまでも主役は二本のヴァイオリン。
ゆっくりと余韻に浸りながら外せば、ほうっと満ち足りた吐息が零れてくる。
ほら、やっぱり俺の思った通りだろう? レンのヴァイオリンを輝かせるのはカホコだけなんだ。
カホコのヴァイオリンが生き生きするのも、レンの隣であるようにね。


『今隣にいる彼女を想い、語りかけていたからずっと心に残って離れなかったのかな。彼女も良い演奏をするね、学長先生の音楽に似ている気がする。音楽を心から楽しいと感じている音色だよ。学長先生のお弟子さんかい? ワシの娘じゃって嬉しそうに紹介してくれたけど。もう弟子は取らないって言っていたのに、先生を動かしたなんて凄いな』
『カホコは素直で人懐こいからな〜弟子を通り越して娘になったみたいだ。レッスンは厳しいけど、家ではデレデレだって奥様が言ってた。でも羨ましいよ、最高の音色が生まれる源・・・ケストナー家の全てを受け継げる訳だから。彼女はレンが認めるヴァイオリニストさ、ライバルであり大切なパートナー。それをレンに言ったらきっと喜ぶよ、嬉しそうに照れるかな・・・カホコもね』


礼を言ってヘッドホンを返し、ちらりとステージを見れば、レンとカホコが次の演奏に備えて調弦をしていた。

この国の街中で演奏するには、試験を受けなくてはいけないんだけど、日本みたく公園で演奏したいからと。カホコは短期の滞在中にも関わらず、難しい試験を受けてパスしたと本人やレンが言っていた。音楽に関して耳の肥えた国だから、青空の下でもコンサートホールと舞台と同じくらい、聞かせるレベルを高く求められる。楽しいだけじゃなく勉強にもなるから、そしてレンと一緒に街中で演奏したいからだと言っていた笑顔の、真っ直ぐな輝きが眩しかった。

自信を持っている姿に惹かれるという点では、このプロデューサーだけじゃなくレンやカホコにも言えるな。前に進む目標を与え続けてくれる人・・・、尊敬するからこそ、とても大切にしたい特別な想いが生まれるんだと思う。


『俺も負けていられないよ・・・・な』
『え、ヴィル君何か言ったかい?』
『いや、こちの事。ついおしゃべりが長過ぎちゃったよってね。ステージの上でレンたちを待たせっぱなしだ。おーいレーン、カホコー!』


立ち上がって大きく手を振り合図をすると、視線をを交わし合いながら仲睦まじく会話をしていた二人が、遠く俺を振り仰いだ。レンはちょっと難しそうな顔をしている所をみると、もう少し二人だけの会話を楽しみたかったのか。カホコは遠目でもはっきり分かる笑顔で、大きく手を振り返してくれている。

さぁこれからは、ヴァイオリンでたっぷり会話の続きが出来るだろう? だから聞かせてくれよな。


『ヴィル君、そろそろ急いだ方が良いんじゃないのかい? ずっと立ったままの君が落ち着くのを、レンたちが待っているように思うんだけど。ほらほら、学長先生もこっちを見て眉をしかめている』
『おっといけない、じゃぁビンチックさん、俺は前の方で聞いてきます。また後でよろしくお願いします』


ステージの上で二人がヴァイオリンを構えると、機材の壁に囲まれた小さなスペースに満ちる静かな緊張。こちらの用意も万端だな・・・おっと、演奏が始まってしまうから急がなくては。肩を竦めてみせるプロデュサーに挨拶をして再び客席の通路を駆け下りると、中央に座っている学長先生のすぐ後ろへ滑り込み腰を下ろした。

柔らかく座り心地の良い椅子に深く身を埋めれば、やっと落ち着いた安堵の溜息がふぅっと漏れてくる。背もたれを掴みながらくるりと肩越しに振り返った学長先生は、予想通り騒がしい子供を諫めるように苦そうな眉を寄せてきた。


『ヴィル・・・お前さん忙しないのう。やりたいことがたくさんあるのは分かるが、もう少し落ち着かんかい。音楽を聴く前に心へゆとりを持たせるのも大切じゃよ』
『俺はこれでも充分落ち着いてるよ。なぁ学長先生、カホコが出発するまで時間はまだ平気か? 一緒に奏でる二重奏だけじゃなくて、レンはまだまだカホコに聞かせたい曲がたくさんあると思うんだ。本当に伝えたい想いは、これからなんだよ』
『そうじゃな、今までの演奏で結構時間がかかったら・・・ちと厳しいのう』


腕時計で時間を確認する表情からは、寂しさや微かな焦りが浮かんでいる。互いに囁き声でヒソヒソと身を乗り出しながら、学長先生の腕を掴み今は何時かと覗き込めば、もうこんな時間だったのかと驚きに目を見開いた。どうしたらいいだろか・・・そう考えを巡らせかけた時に、ふわりと生まれた優しい音色が羽となって俺を包み込んだ。


導かれるようにステージの上に視線を向ければ、二人だけを照らすライトを浴びながら見つめ合い、甘く優しく流れる愛の挨拶・・・。ゆるやかに穏やかに胸に抱いた愛しい想いを歌いながら、力強く希望を持って互いに溶け合うように。見つめ合う二人が浮かべる幸せな微笑みが生み出す、日だまりにも似た温かさ。楽器と溶け合い心臓の鼓動や呼吸までを音楽がそのまま表現しているから、こんなにも心地がよいのだろうな。レンとカホコはこの曲に何を祈り、願っているのだろう。


彼らの演奏には惹き付けられる、まるで物語を読んでいるようだ。彼ら自身と同じように、次に何が起こるのだろうと目が離せなくて。悲しみの中からは希望が、失敗の中から成功の種が生まれ大きく羽ばたくように。フレーズの後に訪れる一瞬の休符で解放された音や想いが、余韻の響きとなってホールや心を満たしてくれる。


十数曲納める一枚のCDの中で、二重奏は合間に挟む休符のようにほんの数曲程度だ。舞台に立つ役者にとって、最も説得直ある台詞は沈黙だというように、音楽では休符を上手く操る事が演奏家にとって重要となる。音符を音符として存在させるもののように、心を重ねる休符のひとときがレンとカホコの音楽を作ってゆく・・・そんな気がする。




大切な人たちが幸せであって欲しいと、願わずにいられない。

あと・・・あと少しで良いのに、どうか時間よ奏でる間と同じようにこのまま止まってくれ。
無情にも刻々と過ぎ去る時間が忍び寄るのを、まだ二人は知らないんだ。いや、今は知らなくていいのだろうな・・・心のままに奏でて欲しいから。