優しい光に想いを込めて・3



大切な君への贈り物は、俺が一番嬉しいと感じた物を贈りたかった。
ずっと想い描き追い求め、君に届けたかった音色・・・それは俺が一番欲しいと思っていたもの。他の誰でもなく、君と一緒でしか作り出せないものだったんだ。空を飛ぶ鳥たちが二枚の翼を必要とするように、香穂子がいるから俺の音楽は、どこまでも高く遠く羽ばたく事ができる。君という光を求め、追いつくようにと・・・。


俺は君へ、君から俺へ・・・そして俺たちから大切な人たちへと向かい奏でられる、小さな演奏会。
ステージの上から生まれるのは、優しい温かな音色たち。個性を出しながらも、出過ぎず控えめすぎないヴィルヘルムのピアノ伴奏が、香穂子と奏でるヴァイオリンの音色を導き支えている。

いつもは瞳を閉じて自分の中に音楽の世界を作り出すが、今は閉じることなく開かれていた。目の前にいる互いを映し、君と俺と二人の世界を作り出すために。ヴァイオリンを弾く君は本当に楽しそうだな。真っ直ぐ注がれる笑顔が・・・笑いかける音色の声がきらきらと輝き、全身で嬉しさを伝えていた。パズルのピースがぴったりはまるような感覚に、心地よさが大きな波となって押し寄せ俺を包む。受け止める心も熱く震え、ヴァイオリンの弦に伝わってゆく。


瞳と心で会話をしながら想いを弦に乗せれば、音に乗って心に直接、香穂子の声が聞こえてきた。
俺の声も、届いているだろうか? 


満ちる温かさのままに緩めた眼差しで応え、メロディーの立ち上がりと同時に二人で息を吸うと、空を切る弓が弦を滑り出す。俺たちヴァイオリニストは、弓で呼吸をしながら共に歌うんだ。流れる音楽が高まるにつれて、フレーズと呼吸が自然に溶け合えば、ヴァイオリンと一つになった気分にならないか?  右手と弓で力を贈り、左手に感情を乗せて音を形作るように、君と俺とでつくる一つの音楽。呼びかけ応えながら音色の中で溶け合い、一つのヴァイオリンとなろう。




一つの曲が終わり、弓が弧を描いて降ろされれば、余韻が静寂に溶けこんでゆく。やがて沸き立つ拍手も音楽に聞こえるような空間の中で、未だ足りない・・・もっと奏でたいと想いは止まらなくて。晴れやかな笑顔で振り仰いだ香穂子も、早く続きを奏でたくてうずうずしているらしい。ねだるように俺をじっと見つめ、そわそわと肩を揺らし、待ちきれずちらりと肩越しにピアノを振り返った。軽く手を挙げて了解を示したヴィルヘルムの手が、再び軽やかに鍵盤を滑り出せば、緩やかだった曲調が変わる。


共に手を取り踊るように、呼吸を合わせながら宙を舞うボウイング。
浮き立ち弾む心が弦を跳ね、手を繋ぎ軽やかなステップで踊るように奏でる二重奏。
抱き締めた君に愛の言葉を届けるように、甘く優しいヴィブラートを弦と心に響かせながら。


もしも香穂子をヴァイオリンに例えたら、君にぴったりなものは何だろうかと。楽しげな笑顔を見つめ奏でながら、ふと考えてしまう事がある。アッチェレランド、ポルタメント、スピッカート・・・どれも違うな。甘く優しく・・・時には熱く激しく心を揺さぶり奏でる愛しい存在、君は俺にとっての大切なヴィブラートだ。


ヴァイオリンは弓が弦の上にある限り、表現の色合いをいつでも変化させることができる。生み出す感情の中でも、弦楽奏者にとってヴィブラートほど大切なものはない。ヴィブラートの幅を広げると音は温かみを増し、その速度を速くすれば緊張感を生む。二つが上手く組み合わさったとき、表現の幅は広がり聴く者の感情は大きく揺さぶられるだろう。

穏やかさ、厳しさ、優しさ、情熱・・・言葉で現しきれない繊細な感情まで。生み出す表情の豊かさは、まるでくるくる変わる香穂子の表情のようだと思う。いや・・・君と過ごしている時の俺も、同じなのかも知れないな。
君にとっての俺も、そうでありたい思う。


ヴァイオリンを上手く演奏できるのは一つの才能だが、それを一つに伝えるとなると、もうひとつ別な能力が必要になる。修練によって身につけたテクニックだけを頼りに演奏しても、心を掴むことができない。 手加減無しの正論だけで全てを押し切ろうとする人が、感情の欠片も無い人だと呼ぶように。そこには心の温もりが欠けているからだと、香穂子に出会ってから教えられた。香穂子と離れた寂しさを抱えながら暗闇に迷いかけ、只ひたすら音楽の高みを目差していた時にも、同じ事を何度となくレッスンで言われていたな。


心を伝えるために必要であり、感情を生み出すヴィブラート。
温もりを与える音の命であり、俺を作り出す香穂子の存在そのもの。
学長先生が奏者に望んでいた、全てを兼ね備えた完全な演奏に必要なものの一つだと、今なら迷わず答えることが出来る。

エネルギーは自らの意思を伝え前に進む力、テクニックや感情は俺と君。一人で奏でるときも想いは同じなら、三つがバランス良く組み合わさっている時と同じ世界が生み出せるのだろう。





どれくらいの時間が経ったのだろうか。休む間もなく次々に音色を重ねるうちに、ここがステージである事を一瞬忘れそうなくらい、二人で奏でるひとときに夢中になっていた。制止の声がかからないという事は、香穂子が帰るまでの時間は大丈夫なのだろう。もう少し一緒に奏でられるだろうか? 二人で曲も奏でたいが、俺の演奏を届ける時間も欲しいと、音楽と君に関しては望む気持ちは尽きることを知らない。曲が終わり少し長い静寂の後に、背後からカタンと響いた音に我に返りれば、香穂子しか目に映していなかった自分に気がつく。


いつもは練習室や部屋に籠もり、自分たちだけの空間を作って演奏するが、今いる場所はステージで多くの人に見守られている。客席や舞台袖では、多くの人たちが俺たちの演奏を聴いているんだ。改めて照れ臭さが募り、顔に熱さが集まるのを感じれば、向かい合う香穂子も頬を染めてはにかんでいた。

どちらともなく、くすぐったい微笑みが生まれ、日だまりに身を浸したような温かさに包まれながら。調弦をしてピアノ伴奏が始まるのを待っているものの、なぜかいつまでたっても鳴る気配や合図が出てこない。不思議に思い香穂子と視線を合わせ肩越しに振り返ると、楽譜を閉じたヴィルヘルムが立ち上がってピアノから去るところだった。驚き声を上げようとする俺たちに、声を出しては駄目だと口元に立てた指を当てながら、何かを語りかけるような穏やかな笑みを浮かべている。


光沢ある板張りの床へ靴音を立てないよう、静かに向かおうとしているのは客席だ。俺と香穂子の脇を通り抜けるときに一度立ち止まり、俺たちだけに聞こえるように小さな声で囁いた・・・後は頼んだと託すような眼差しで。


『俺のピアノ伴奏はここまで、アレンジした譜面がもう尽きたっていうのもあるんだけど』
『え・・・もう終わりなんですか!? もしも時間が残っているなら私、まだもうちょっと弾きたいんです』
『・・・CDに納める予定の二重奏曲は、あと一曲残っているだろう?』
『そうだな、でもあれは伴奏のアレンジをしなかったんだ。俺がいるよりも、君たち二人だけの方がいいと思ったから。俺がレンと弾くはもっと困るけど』
『!? 蓮くんもヴィルさんも、一体なんのお話なんですか?』


残りの一曲が何であるのか、俺には分かっていた。ヴィルヘルムお節介なのか親切なのか、彼の壮大な計画の一つなのか。だが気遣いの嬉しさに、ありがとうと・・・自然と緩む頬の自分がいる。たまには流れに身を任せ、心の思うままに動くのも良いと思うから。

それは、俺と香穂子にとって大切な曲。君としか奏でられない、想いを伝え合うただ一つの曲。
きょとんと小首を傾げる香穂子の肩をポンと肩を叩き、澄んだブルーグリーンの瞳が真っ直ぐ見つめる。分からないながらも何かを感じ取り、姿勢を正す彼女を隣で見守る俺にも、光は注がれた。


『後は二人だけの時間だ、お邪魔虫は退散っと。どうせ途中から、伴奏は聴いていても俺なんて見えてなかっただろうしね。まだ時間はある、それにまたもう一曲、君たちにとって大切な曲があるだろう? 香穂子を想って作るCDの曲目に、どうしてもこれだけは外せないってレンが主張した曲。何だと思う?』
『おいっ・・・・・!』
『ちょっと、レンは黙ってくれよな?』
『えっと〜あと弾いてない曲のなかで、足りないものって何だろう? あ、愛の挨拶だ!』
『そう、愛の挨拶。こればかりは俺の伴奏も、誰も邪魔できないさ。一緒にステージに残っていたら、熱くて焼けこげちゃいそうだから一足先に抜けさせてもらうよ。カホコが客席に降りて、レンが君だけにヴァイオリンを弾く頃になったら、また戻ってくるよ』
『ありがとう、ヴィルさん!』


じゃぁまたと、ヴィルは悪戯な笑顔で手を振りながら、ステージに備えられた階段を身軽に駆け下りていった。
ステージに残された俺と君、これで本当に二人きりだ。香穂子は嬉しそうだが、息が止まりそうなくらい高鳴る鼓動が耳から聞こえてくる。


「蓮くん、どうしたの? 緊張しているの? 何だか顔が真っ赤だよ、もしかしてドキドキしてるでしょう?」
「緊張・・・そうかも知れないな。二人で想いを重ねるために奏でることは何度もあったが、それを誰かに聴かせる事はあまりなかったな。自分で選んでおいて、変な話だが」
私も大好きな曲を一緒に弾けるのがとっても嬉しくて、ドキドキしているの。学長先生や奥様、それにヴィルさんみんなに聴いてもらえるんだもの。みんなに私たちを認めてもらえるように、頑張って演奏しなくちゃね。蓮くん大好きだよって、たくさん想いを込めるから受け取ってね」
「俺たちはこれだけ愛し合っているのだと、皆の前で想いを重ね君への愛を誓う・・・言葉よりも多くを伝えるこの曲で。いつもは君と二人だけだが、人前で奏でるのは妙に照れ臭いな」
「どうして?」
「教会の式で誓いのキスを披露するのに似ていると、そう思うから。あ・・・いや、何でもない」


顔に集まる熱さに耐えきれず、フイと逸らした顔を戻すと、負けずに真っ赤に茹だった香穂子が、俯くようにヴァイオリンを抱き締めていた。抱き締められるヴァイオリンが少し羨ましくなるような、だが不思議と君に抱き締められる温かさに包まれてくる。優しく名前を呼びかけると、上目遣いに瞳を上げて頬を綻ばせ、甘く蕩けそうな愛しさで俺を誘うんだ。


再びヴァイオリンを構え、視線を絡ませながら呼吸を合わせて。さぁ奏でよう・・・もっと二人で世界を広げよう。
一つのヴァイオリンになって、互いを溶け合わせながら。